住宅顕信(岡山市) 夭折の俳人
すみたく・けんしん 1961―87年。岡山市生まれ。中学卒業後、同市内の下田学園岡山調理師専門学校の夜間部に進み、昼間飲食店で働きながら、調理師免許を取得。文学、宗教にも興味を持つ。80年飲食店を辞め、父と同じ岡山市環境事業局に勤務、83年7月得度、浄土真宗僧侶の資格を得る。10月結婚。翌2月発病、入院。10月自由律俳句雑誌「層雲」入会。85年12月句集「試作帳」を自費出版。87年2月没。一周忌で遺作の句集「未完成」発刊。七回忌で句碑建立。
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岡山県庁(岡山市北区)南手の旭川に架かる京橋。その西詰めの緑地に住宅顕信の句碑は建っている。〈水滴のひとつひとつが笑っている顔だ〉万成石に刻まれたこの句は、顕信の代表作ではないが、明るい雰囲気がよかろうと、句友らによって選択された。
急性骨髄性白血病にさいなまれ、わずか25歳で逝った顕信。闘病生活を象徴する厳しい句も多いが、句友らは、句碑にそれを選ぶことをあえてしなかった。
顕信が世に問うたのは、たった281句。それが没後、種田山頭火や尾崎放哉に匹敵する評価を得、自由律俳句を代表する存在にまでなった。その背後には生前、そして没後にかけて支えた多くの句友の存在があった。
今年は顕信生誕50年。
分かりやすい句に劇的人生
岡山市北区南方の吉備路文学館では今、住宅顕信生誕50年を記念して遺品や著作を展示した企画展が開かれている(2012年1月22日まで)。それに関連してのイベント、顕信を語る会が11月中旬、筆者も加わって同館で行われた。筆者は顕信のことを取材し、本紙に連載したという立場、岡山大教授の池畑秀一さん(60)が顕信と親交あつかった立場でそれぞれ参加したが、この日のメーンは、顕信の一粒種住宅春樹さん(27)だ。何せ、公に父のことを語るのは初めてである。
死に別れたのは2歳。むろん、父の記憶はないが、70余人の聴衆の前で、司会に好きな句を問われると、〈気の抜けたサイダーが僕の人生〉を挙げた。「自分の生きている現状のようで、大学生のころ好きになりました」
父のことは誇らしく思う。「父の句は若い人にも分かりやすい。自分と同じ世代に、心に感じる部分があるのはうれしい」「子どものころは父の俳句という見方だったが、今は俳句を父そのものと思うようになりました」
春樹さんの職業は、診療情報管理士。くしくも、父が闘病生活を送った岡山市民病院(岡山市北区天瀬)が職場となっている。
青春時代
顕信は、本名春美。同市北区谷万成の両親と妹がいる家庭に育った。高校には行かず、調理師専門学校に通い、飲食店などで働きながら、女性関係も多い青春時代を過ごした。文学、宗教に興味を持ち、20歳前後で季語・五七五にこだわらない自由律俳句に親しむ一方で、22歳のとき得度して浄土真宗の僧侶の資格を得た。間もなく結婚したが、翌1984年2月に急性骨髄性白血病を発症、岡山市民病院に入院し、抗がん剤の副作用などに苦しむ闘病生活を余儀なくされた。
されたが、顕信の句づくりはここから本格化する。俳人顕信の俳人たるゆえんは、入院から死ぬまでの丸3年の間に形作られたと言っていい。自由律の先駆者荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)(1884―1976)が起こした自由律俳句雑誌「層雲」に入会し、投句を続けるうち、次第に認められたのと、病気の事情を知ったたくさんの同人が顕信を励まし、交流を持った。
病気が理由で離婚になったが、入院後に生まれた春樹さんは引き取り、その存在も生きがいとなって、作句にいそしんだ。
「未完成」
〈若さとはこんな淋しい春なのか〉〈春風の重い扉だ〉〈ずぶぬれて犬ころ〉〈鬼とは私のことか豆がまかれる〉
一周忌に編まれた句集「未完成」(彌生書房)は、岡山市でベストセラーになり、初版1000部は、500部を増刷、作品の評価も高かった。
句集づくりに奔走したのが、池畑さんだった。「層雲」に入会したのをきっかけに、死ぬ半年前に知り合い、親交を重ねていた。遺稿を東京の彌生書房に持ち込み、281句を形にした。
句友たちの間では、句碑建立話も持ち上がった。これも池畑さんが中心となって動き、岡山県内の俳句界から協力を得て、句碑建立委員会を立ち上げた。当時の吉備路文学館の山本遺太郎館長(故人)を代表に、募金と署名活動を展開、200万円近い募金と4000人を超える署名が集まった。署名を持って岡山市に要望、北区の旭川に架かる京橋西詰め緑地が提供され、七回忌の93年2月に建立が実現した。
顕信をめぐっては、破天荒な青春時代、そして闘病と夭折(ようせつ)という悲運に染まった劇的な人生を背負っていることもあって、評伝や関連本、句集などがこれまで相当数編まれ、ジャンルを超えての人気を得ている。
吉備路文学館の顕信を語る会に来ていた岡山県俳人協会副会長の清中蒼風さん(72)=倉敷市藤戸町=は、こんな感想を漏らした。
「顕信には二つの面で衝撃を受けています。25歳の人生は、私にこんな生きざまでいいのかと思わせるし、定型(五七五)に頼る俳句の生ぬるさを感じさせられます」






