難波仁斎(岡山市) 戦後岡山漆芸の祖
なんば・じんさい 1903―76年。広瀬巳代治の次男、本名は仁次郎。市立岡山工芸学校塗工科を卒業した24年、全国唯一の工芸公募展だった商工展に岡山から初入選して頭角を現す。京都で図案を勉強後、母校に奉職し57年まで勤めた。教え子に蒟醤の人間国宝太田儔(79)らがいる。難波家に婿養子に入った27年から足守住。
日本伝統工芸展を中心に活躍し、第9回展で日本工芸会総裁賞。同会中国支部の発展にも尽力した。64年、岡山県重要無形文化財保持者に認定。初めての「難波仁斎回顧展」を実現した翌年に死去。 |
「どこかに、継ぎ目があるはずなんだけど…」。岡山県立美術館の福富幸学芸員が、どうにも不思議がる。
黒と朱、たったふた色で表現された草むらの情景。左右から伸び掛かる草の茎の線に、張りと勢いがみなぎるのを見ても、並の名手でないことが分かる。
しかも、日本画ではない。漆芸だ。学芸員が首をひねる訳もそこにある。粘りがある漆は、一筆でかける線は普通は数センチ。ところが、この草の線は優に30センチを超えているのだ。あるはずの筆の継ぎ目も見せずに―。
難波仁斎(じんさい)作「描蒟醤(かききんま)草文(そうもん)四方(よほう)盛器(もりき)」(1951年、岡山県立美術館寄託)。戦後漆芸界にこの人あり、とうたわれた超絶の技と叙情あふれる世界は、厳しい修練と岡山の風土から生まれた。
線の芸術「描蒟醤」を独創 修練と風土から得た叙情
竹林が風に揺れる。満月が秋草をそっと照らし、川の流れは渦を巻いていく。心は情景の中に吸い込まれ、風音や草の香りまで感じられてくる…。
「こんな表現があるなんて、と。ショックでした」。現在の岡山を代表する漆芸家山口松太さん(70)=岡山市北区大和町、県重要無形文化財保持者=は45年前、初めて難波仁斎の作品と出合った衝撃を忘れない。山口さんが漆芸を志したのはその日からだ。
その目には今も、師・仁斎の制作姿が焼き付いている。一般の蒔絵(まきえ)師なら筆を持った手の小指を素地に付け、描く支えにする。金粉を蒔(ま)けば、線の継ぎ目も隠してくれる。「ところが、仁斎先生は手を宙に浮かせたまま、さらさらと描くんだから」とため息をつく。「あり得ませんよ」
「描蒟醤(かききんま)」。当時の漆芸界でも仁斎だけが駆使した技。絵画的な日本的情趣を漆で表現した画期的な世界。代表作の一つ「描蒟醤竹林文卓」は、全国最高峰の日本伝統工芸展(第9回、1962年)で、最高賞・日本工芸会総裁賞の栄誉にも輝いた。
求道者のように
「今でも2階へ上がるのはドキドキするんです。何か神聖な場という感じで」。難波澄江さん(73)=同区足守=はそう言って、義父のかつての仕事場を見せてくれた。
白い塗り壁と色あせた赤いじゅうたんが広がる約10畳の部屋。窓辺の机や筆立て、床の掛け軸までほぼ当時のまま。主を失っても“抜け殻”とは思えない雰囲気が今もある。
仁斎の1日は朝5時、部屋の拭(ふ)き掃除から始まった。漆に大敵のほこりが立たないよう天井や階段まで磨く。茶を飲み、心を静めてから仕事に取り掛かる。真夏でも窓は閉め切り、扇風機も使わない。求道者を思わせる厳しい仕事ぶり。描蒟醤はそうして生まれた。
岡山市北区栢谷の小作農家に生まれ、17歳で市立岡山工芸学校(同区船頭町辺り、岡山工業高の前身)に入学。約15キロの道のりを片道2時間以上を掛けて歩いて通うことから始まった漆芸人生を自ら振り返っている。「毎日毎日あくこともなく積み重ねていく努力によって、初めて何かを会得できる。それが私の悟り」(山陽新聞社刊「歳月の記」)。
古里に抱かれ
厳しい修練に加えてもう一つ、仁斎芸術の母体がある。難波家に婿養子に入って亡くなるまで、半世紀近くを過ごした足守の町。
仕事の後は散歩が日課だった。足守川の川辺から、陣屋町ならではの古寺や町並みを、時間をかけて歩く。途中、野の花があれば一輪手折り、仕事場に生け、デッサンをした。
「足守川のほとりの竹林に埋もれている時、自然に制作の意欲がわく」(「歳月の記」)と言った仁斎。足守の自然と風土に抱かれながら、心の中で馥郁(ふくいく)と醸し出した極上の風合いが、描蒟醤のあの叙情なのだろう。
これほどの漆芸家が、産地でもない岡山から現れたのは奇跡でもある。しかもその流れは、1本の太い糸で受け継がれた。伝統工芸界に残した唯一の弟子、山口さんも日本伝統工芸展(第46回、99年)で総裁賞を受賞。備前焼界も含めて、岡山から同展最高賞を手にしたのは今も、この2人しかいない。
そんな仁斎でさえ、没後34年を経る中で、人々の記憶から消えつつある。「人間国宝」(重要無形文化財保持者)という肩書だけがなかったために―。
「ほんの少し前の人なのになあ」。岡山県立美術館(同市北区天神町)の福冨幸学芸員も惜しむ。ただ、漆芸家には作品がある。「地域に多く眠っているはずの作品を掘り起こして、いつか『難波仁斎展』を開きたい」。その描蒟醤と再び、衝撃の出合いをする人が現れるかもしれない。






