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11代万代常閑(岡山県和気町) 富山売薬の祖

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明治から昭和初期にかけて販売された「反魂丹」(富山市売薬資料館蔵)。その製法は11代万代常閑が伝えた
明治から昭和初期にかけて販売された「反魂丹」(富山市売薬資料館蔵)。その製法は11代万代常閑が伝えた


 11代まんだい・じょうかん 1657―1712年。備前国和気郡益原村(現在の岡山県和気町益原)に生まれ、医師として働いた。1674年と88年に和気地方に疫病が流行した際、岡山藩の命で治療にあたり、90年の益原用水の工事では作業員のけがの手当てなどに尽力。これらの功績から1704年、和気郡の郡医に任ぜられた。また、万代家秘薬の返魂丹を大庄屋廻しの手法で販売したほか、返魂丹の製法を富山に伝え、のちの売薬業発展に貢献。富山市・妙国寺には、製法を教えるために富山に1680年代、3年間滞在したとも伝わる。1931年には従五位が贈られている。写真は岡山県立博物館蔵の備前焼陶像(部分)。贈位を記念し、同年に多数制作された。

 れんが色をした、仁丹ほどの小さな粒。顔を近づけると、かすかに漢方のにおいが鼻をかすめた。

 食傷や腹痛、めまいなど何にでも効くと重宝された万能薬。「反魂丹(はんごんたん)」と呼ばれる。江戸時代、富山の薬売りによって全国に行商され、大名から庶民にまで広く服用された。

 製法を伝えたのは、300年ほど前に岡山県和気町で活躍した医師・11代万代(まんだい)常閑(じょうかん)。20種以上の生薬や鉱物を調合した万代家に代々伝わる秘薬だった。

 今に続く「富山売薬」は、この薬が起源とされる。いったい何千、何万の人がこの薬に救われたことだろう。岡山県立博物館(岡山市北区後楽園)で開催中の企画展「売薬の祖 万代常閑」の一角で、その異彩に引き込まれた。


医師としての使命感 「返魂丹」富山に伝える


 さわやかな風がほおをなでる。耕運前の田んぼにレンゲが咲き乱れていた。11代万代(まんだい)常閑(じょうかん)が居を構えた岡山県和気町益原地区。八幡宮へと続く山道に、その名を刻んだ石碑がひっそりと立っている。眼下に生きる人々の健康を見守っているようだ。

 「私の家には今も富山から“売薬さん”が来るんよ」。常閑に詳しい延本繁雄さん(73)=備前市西片上=が案内をしながら教えてくれる。

 「でも、この前来た人は常閑さんを知らんかった。岡山に来るなら勉強せんとなぁ」

 柳行李(やなぎごうり)を背負った売薬さんが各地の家庭を回って薬を預け、次に訪問したときに使った分の代金を求める。この置き薬の商法は300年余り前、富山のほか、奈良や岡山県備中地方などでも起こるが、富山は藩のバックアップで急成長する。

 夜中であろうと、お金がなかろうと、緊急時にすぐ薬を飲むことができる。このシステムは、医療の乏しかった明治、大正、さらに国民皆保険制度が定着する昭和40年代ごろまで、庶民の暮らしに欠かせないものとして普及していた。

   ■

 19世紀初めには2500人、昭和初期には1万2千人に上り、全国を席巻した富山の薬売さん。富山市の妙国寺では今も毎年、11代常閑の遺徳をしのぶ報恩祭が開かれている。

 「秘薬を遠い富山へ伝えてくれた。多くの人を助けたいという医師の使命感を持った方だったのでしょう」。吉岡寛雄住職(62)はしみじみと語った。

 秘薬のルーツは、万代家の初代万代(もず)押部助(かもんのすけ)にさかのぼる。

 押部助は大阪・堺で代官を務めていたが、堺浦に漂着した中国人を救い、お礼に「返魂丹(はんごんたん)」の製法を授かったという。応永の乱(1399年)を経て、3代が和気に移住。名を万代(まんだい)常閑と改め、以降、子孫は常閑を襲名し、返魂丹を用いて医師として活躍を続ける。

 11代常閑は疫病患者らの治療に励み、時の岡山藩主・池田綱政から和気郡の郡医に取り立てられた人物。ただ、返魂丹をなぜ富山へ伝えたのかは定かでない。

 富山藩前田家の2代藩主正甫(まさとし)の家臣が旅の途中に常閑と親しくなり、腹痛を起こして返魂丹をもらったとか、製薬に関心があった正甫が返魂丹の薬効を耳にして常閑に処方を教えさせたとか…。前田家の外伝をまとめた「前田氏家乗」などが伝える。

 もう一つ、興味深い話がある。俗に言う「江戸城腹痛事件」。

 1690年、正甫が参勤交代で江戸城に出向いた際、他藩の大名が激しい腹痛に襲われた。11代常閑の処方を基にした反魂丹を飲ませると、たちどころに回復し、居合わせた諸大名がびっくり仰天。われ先にと反魂丹を求めた。

 正甫は、これを機に反魂丹を置き薬の手法で全国に行商させたという。

   ■

 11代常閑が富山に伝えたのは、秘薬だけだったのか―。

 何度も富山を訪ね、2年がかりで常閑を研究した岡山県立博物館の信江啓子学芸員は独自の推察を語る。

 返魂丹を岡山藩内の村々の大庄屋に預け、必要な人に使ってもらう。後から使った分だけ代金を集める。まるで富山売薬とみまがうようなこのシステムは「大庄屋廻(まわ)し」と呼ばれ、万代家の史料などから、考案者は11代常閑とみられる。

 「返魂丹が優れた薬だったことに加え、このシステムが当時の人々にどれほど大きな安心を与えたことか」と信江学芸員。「まさに民衆のための医療に尽くした医師。置き薬のシステムを伝えた可能性もある」

 万代家はその後、備前市西片上へ移り、数年前まで21代常閑が地域医療に尽くした。地元は「歴代常閑さんは、貧しい人からは薬代を取らなかった」と語り継ぐ。

 一時期、20代常閑を名乗った医師の万代素子さん(71)=岡山市北区=も、19代の父の死後、患者さんが「以前、払えなかったので」と治療費を持ってきたことを覚えている。

 「父にも歴代常閑の心構えが伝わっていたのでしょうか。でもね…」とほほ笑む。「目の前の患者を救いたい。医者ならだれもが持ってる気持ちだと思うんですよ」




(2010年5月17日掲載)

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