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矢野恒太(岡山市) 生命保険事業の先覚者

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恒太の“古里”三徳園では毎年約10万人が自然と触れ合う。ゴールデンウイークはボタンが見ごろ=4月10日、岡山市東区竹原
恒太の“古里”三徳園では毎年約10万人が自然と触れ合う。ゴールデンウイークはボタンが見ごろ=4月10日、岡山市東区竹原


 やの・つねた 1865―1951年。現在の岡山市に医師矢野三益の長男として生まれる。第三高等中卒。日本生命保険会社で診察医となった後、独力で生命保険理論を研究し相互主義保険を唱道した。94年に共済生命保険合資会社の設立に携わり営業担当支配人。95年から独ゴータ相互保険会社に留学した。帰国後の97年、総支配役となるが翌年退社。農商務省に出仕、保険業法制定の草案委員を経て同省初代保険課長を務めた。1902年に日本最初の保険相互会社・第一生命を設立、専務に就任。15―38年社長、46年まで会長を務め、その間生命保険協会理事長、日本結核予防協会理事なども兼任した。ベストセラーとなった「ポケット論語」ほか「金利精覧」「一言集」「芸者論」など著書多数。

 数字、数字、数字の羅列。

 独自に編んだ対数表や乗除表、三角関数表を載せたハンドブック「国民数表」(1952年発刊)は、実業家矢野恒太からこの世への最後の贈り物だ。

 明治、大正、昭和を生きた矢野が生涯の仕事として力を尽くしたものは二つある、と序文で長男一郎さん(故人)が明かす。日本初の相互会社による生命保険事業の確立と、市井の人々への計算の普及。誰でも携帯でき、使いやすい手引書の出版は長年の念願だった。

 自他共になじんだあだ名は「一言居士」。数字の海の波間には、矢野翁の“言いたいこと”が漂っている。


 神経痛で真っすぐに伸ばせない手指の間に、短い棒を挟む。そのとがった先で3丁、4丁と並べたそろばんを丁寧にはじいていく。

 75歳ごろ、すべての役職を退いた矢野恒太は50年来の宿願「国民数表」のための計算に取り掛かった。手伝った孫の秋口マリ子さん(84)=東京都=の目の裏には、半ば伏し、半ば座し、年がら年中「大手まんぢゅう」を楽しみながら作業を続ける祖父の姿が鮮やかに残っている。

 日本人はもっと数字に親しまないと進歩しない―。そんな使命感で戦争中も取り組んだ原稿は10年後、亡くなる半年前に完成した。

 「常に清潔な人でした。それに酸いも甘いもかみ分けて、とっても洒脱(しゃだつ)」。秋口さんは優しい声音で懐かしむ。「でもお仕事をされていたころはどうだったか…。ご多忙でほとんど接点がございませんでしたの」

     ◆

 矢野は1865(慶応元)年、現在の岡山市東区竹原に生まれた。代々医業の家系だったため、第三高等中(現岡山大)医学部に入学。89(明治22)年の卒業後は、恩師の紹介で開業間もない日本生命に保険医として勤め始めた。

 ところが、待遇改善を求める交渉に臨んだ結果、3年で退社することに。反発心から帰郷して家業を継ぐ道を捨て、ひたすら生命保険業に専心する覚悟を決めた。保険、統計、経済の研究に没頭し、翌年には早速10編以上の論文を新聞、雑誌に発表している。

 とりわけ異彩を放つのが、誰よりも先に「相互主義による保険会社」を提唱した一編だ。草創期の生保は株式組織の会社だったが、株主の利益のために保険を請け負うのではなく、契約者が社員となり余剰金の大半が還元される会員組織での経営を理想としていた。

 実は当時、先行各社の成功に触発され、生保や類似保険の会社・組合の起業ブームが全国で起きていた。投機目的や詐欺まがいも多く、社会問題になっていたという。

 94(明治27)年、共済生命(現明治安田生命)の設立にかかわるも、運営理念がかみ合わず退社。次に農商務省(当時)に移り、生保会社の監督強化などを進める保険業法の起草に参画。そして1902(明治35)年、37歳で満を持して日本初の相互会社、第一生命保険を創業した。

 契約者、生保業界のために失敗はできない。矢野は必ず数字から事実を分析し、客観的、合理的に会社の基盤を固めていった。例えば保険料は外国人の死亡表に基づく算出がまだ一般的だった中、日本人のデータから自ら死亡表を作った。手数料のかかる代理店制度を廃し、詳密で明快な考課状を開示した。

     ◆

 4月。空気が緩み、一斉に咲いた桜の花が周囲を淡いピンク色に染め上げる。ソメイヨシノ、ソウドウザクラ、ベニシダレ…。まぶしい光と鳥のさえずりを全身に浴びながら、親子連れが並木を歩き、お年寄りたちがひざの上の花見弁当をのんびりと口に運ぶ。

 矢野が郷土の若い農業従事者育を育ててほしいと寄付した出生地そばの山林は今、岡山県立青少年農林文化センター三徳園(岡山市東区竹原)として、市民の憩いの場になっている。ほかに結核の早期発見、治療活動に先頭に立って取り組むなど、その理知と創意は保険事業以外の各方面に注がれた。

 中でもやはり統計には格別な思いがあったのだろう。27(昭和2)年に著した「日本国勢図会」は、人口、国民所得、米の生産消費量から図書館数までを詰め込んだ力作。現況を知るためのデータ集として読み継がれ、第67版となる2009/10年版までに計330万部を発行している。

 第一生命は、今春、相互会社から株式会社に転換し市場の話題をさらった。「矢野翁の経営理念『顧客第一主義』を守り抜くために、成長できる組織形態へと変更を決断したのです」(広報部)。時代は変わる。だが正しく読み取る力があれば、遭難することはない。




(2010年4月19日掲載)

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