清水宗治(総社、岡山市) 義を貫いた地域の誇り
しみず・むねはる 1537〜82年。備中南東部、現在の総社市周辺を拠点とする武将・清水宗則の次男として生まれる。総社市史によると、最初は毛利氏配下の石川氏に属していたが、備中高松城主だった義父・石川久孝の没後に城主となり、毛利元就の三男・小早川隆景直属として中国地方各地を転戦。隆景をはじめ、毛利氏首脳陣から深く信頼されるようになる。羽柴秀吉の中国攻めでは、居城にこもって徹底抗戦。毛利の外交僧・安国寺恵瓊と秀吉との間で成立した講和により、5千の兵の助命や毛利氏の安泰を条件に自刃した。子孫は毛利氏の重臣となり、明治維新では清水美作が、第二奇兵隊総督として活躍した。 |
備中国分寺の北西約2キロ。総社市井手の小さな墓地に古びた2基の石塔が並んでいる。黒ずんでこけむし、刻まれた文字も読めない。地元では、戦国武将・清水宗治と、その兄月清が眠ると伝えられている。
約430年前。東に5キロほど離れた備中高松城で、二人は自刃した。天下統一に突き進む織田信長が、中国の雄・毛利攻めに派遣した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の“奇策”水攻めを受け、5千の兵と主家毛利氏を救うために。
寝返りが日常茶飯事だった戦国時代に、義を貫いたその姿は今でも人々の心を打つ。墓前の花は絶えることがない。
力量と人柄備えた武将
ヒバリが鳴く。柔らかい日差しに沼の水面が輝く。国史跡・備中高松城跡(岡山市北区高松)。のどかな春の光景から往時の戦乱を想像するのは難しい。
1582年3月、羽柴秀吉は兵1万5千を伴って姫路を立ち、西進。4月、その3年前に毛利から織田へ寝返った宇喜多軍1万5千と岡山城で合流し、備中に入った。毛利の防衛ラインである備中7城のうち2城を攻略。高松城主の清水宗治と対峙
じ
する。
宗治は、5千の兵と城にこもり、1カ月以上徹底抗戦を展開した。
「みんなが宗治ならどうする?」。昨年11月、総社東中(総社市井手)1年G組の教室で、金田雅男教諭(50)が呼び掛けた。
宗治になったつもりで郷土の戦国時代を学ぶ。総社市の中学社会科教諭が4年前から授業研究を重ねている。
織田信長からは、味方につけば備中・備後の2国を与えるという破格の条件が宗治に示されたとも伝わる。「さあ、織田か毛利か」
生徒たちは、メリットとデメリットを考えながら、「戦乱をなくすために織田に寝返る」「織田が強そうだけど、仲間は裏切れない」…。議論は白熱。織田方17人、毛利方11人の結果で終わった。
「生徒は歴史のその後を知ってますからね」。金田教諭は苦笑しながらも「手応えは十分」と胸を張る。「歴史を覚えさせるのでなく、歴史から考えさせたい」。生徒はその期待に応えた。
「命懸けで人を守り信じる道を貫くって、カッコいい。そんな人が地元にいたと思うと誇りに感じるな」。3カ月以上たった今も中塚絢子さん(13)の心には残っている。
誠実に生きる
中国兵乱記などで描かれている宗治のイメージは猛将だが、軍記物以外の史料は乏しく、その人物像は謎に包まれている。
「少なくとも、武将としての力量も人柄も十分に備えていたでしょう」。岡山県教委文化財課の横山定主幹は推測する。
高松城は、周囲の沼と泥田を堀とする堅城だった。山陽道沿いにあり、水運の要衝も近い。毛利にとっても織田にとっても戦略拠点となる地。「境目の地侍を束ねていた宗治は、毛利氏の信頼を得て領国防衛の要を任されていた」
総社商工会議所会頭の清水男さん(57)=総社市総社=は、宗治の兄月清の子孫にあたる。自宅を訪ねると、床の間の掛け軸を見せてくれた。
「私の人生訓です」
山口県光市に残る、宗治が息子にあてた遺言書を、総社市の書家高木聖鶴さん(文化功労者)に書いてもらったという。
「恩を知り 慈悲正直に」(主君の恩を忘れず、家臣には慈悲深く)、「朝起や 上意算用武具普請」(規則正しく、武芸や学問に励め)…。
「死を前にした極限状態でこれだけの言葉を残せるのは、自分が誠実に生きたからこそ。真っすぐに生きた人だったと思います」
地域の中心
浮世をば 今こそ渡れ 武士
もののふ
の 名を高松の 苔
こけ
に残して
高松城跡には宗治の首塚とともに辞世を刻んだ石碑が立つ。
「切腹のとき、宗治公はさわやかな気持ちだったんじゃないでしょうか」と話すのは、住民組織「高松城址保興会」の顧問・林信男さん(90)。「自分の決断で、5千人の兵も毛利家も、高松の地も守れる、とね」
会は住民有志が1909年に結成。城跡の保存・整備に努め、毎年命日(6月4日)に合わせて開く「宗治祭」をはじめ、清掃や資料館の運営にもあたっている。
「公園になった城跡に住民が集い、自然に地区の歴史を知り、地元への愛着を深めていく」。資料館を案内する田中照子さん(62)が教えてくれた。「宗治公が、コミュニティーの中心なんです」
備中高松城水攻め
戦国史上名高い「備中高松城水攻め」はどんな作戦だったのか。
城を丸ごと水浸しにし、外部と遮断して兵糧攻めにする。壮大で画期的な構想を思いついたのは羽柴秀吉自身とも、軍師の黒田官兵衛ともいわれている。
梅雨で増水した足守川をせき止めて水を引き入れるため、「中国兵乱記」は7日間で長さ約3キロ、高さ7・2メートルの大堤防を築いたと記す。ただ短期間でこれだけの工事を完成させるには無理があるとして、城の南東の国史跡・蛙
かわず
ケ鼻築堤跡(岡山市北区立田)周辺を集中的にせき止めたとする説もある。
1998年、岡山市教委が築堤跡を発掘調査したところ、俵を積んだ跡やくい列が出土。堤の幅が24メートル前後と確認された。小舟30艘
そう
に石を満載して沈め、近隣の農民には、土のうを一つ運ぶごとに銭100文・米1升を与えたとの伝承もある。
この後、秀吉は太田城(和歌山県)の攻略でも実施している






