池田綱政(岡山市) 岡山藩主
いけだ・つなまさ 1638~1714年。母は二代将軍徳川秀忠の娘・天樹院の娘勝子。1672年、父光政の隠居で藩主に就いた。古典文化に通じ、一般に公家的文化大名といわれる。75年、京都御所造営という大役を成し遂げ、藩政改革にも着手。有能な家臣を登用して倉田・幸島・沖の3新田を開発、百間川を掘削したほか、光政が設けた閑谷学校、吉備津彦神社を改築、曹源寺を創建し、後楽園を築庭するなど貴重な文化遺産を多く残した。晩年まで世継ぎに恵まれず、77歳で没するまで42年間も藩主を務めた。藩主としての日々を記録した「岡山藩主池田綱政の日記」(神原邦男編)が刊行されている。
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<生まれつきの愚か者で、分別がない(生得魯(ろ)ニシテ、分別アタワズ)>
元禄3(1690)年ころ、江戸幕府が作成した極秘の報告書で、こんなとんでもない人物査定を受けた大名がいた。備前岡山藩主池田綱政である。
一方―。天下の名園・後楽園(国特別名勝、岡山市北区後楽園)や名刹(めいさつ)・曹源寺と岡山藩主池田家墓所(国史跡、同市中区円山)、閑谷学校の現講堂(国宝、備前市閑谷)の造営に、児島湾の新田開発…。近世岡山を象徴する大事業をずらりと成し遂げたのもまた、綱政だ。
愚か大名か、名君か。極端に隔たったイメージの間にある実像は、果たして―。
愚か大名か、名君か、隔たる人物像 人脈と情報力で藩安泰に導く
それにしても、ひどい言われようだ。
<カクノゴトク不学文盲短才モマタ珍シ><昼夜酒宴・遊覧ヲ心トシテ、政道ニイロハズ><女色ヲ好ム事、倫ヲ超エタリ>…
江戸幕府の公儀隠密が作成したとされる「土芥(どかい)寇讎(こうしゅう)記」。水戸光圀や浅野内匠頭らおなじみの人物も含め、元禄期の大名243人の人物評を収める。中でも、岡山藩主池田綱政の評価はさんざんだ。
岡山市出身の歴史家磯田道史・茨城大准教授は、同書を基に著した「殿様の通信簿」で、旧藩士の家を継いだ祖父が声を潜めて語った「曹源公(綱政)は子どもを山ほど作った。その数、あわせて70人…」という衝撃の体験とともに「(元禄期の)『日本一の馬鹿(ばか)殿様』 そういわれても、おかしくない存在であった」と認める。
戦国の遺風を残す武将政治家、学者として世に聞こえた名君だった父光政(1609~82年)と際立つ落差。実際、綱政は長く、不肖の愚か大名と語られてきた…。
▽すごい教養人
筆跡も流麗な和歌日記、プロ絵師と見まがう絵画、業務上の詳細な覚書…。池田家伝来品を多く所蔵する林原美術館(岡山市北区丸の内)に2007年末、研究者らの関心が集まった。展示資料49件のほとんどが初公開という「池田綱政」展が開かれたのだ。
「字のうまさは光政以上。メモ魔といえるほどに“まめ”。『不学文盲』どころか、すごい教養人だと思う」。同美術館の浅利尚民学芸員は“評判”との違いに驚いたという。
同展を監修した神原邦男・川崎医療福祉大教授(近世文化史)は今も、綱政像の見直しを精力的に進める。藩政文書「池田家文庫」(岡山大付属図書館蔵)にある藩主の動向を記録した日記なども丹念に読む中で、浮かび上がってきた姿は―。
「大名なのに、目配り、心配りが非常にできた」。将軍徳川綱吉、側用人柳沢吉保や京都の公卿ら要所には「ここまでするか、というほど付き合いに抜かりがない」。藩内では、能吏の津田永忠ら家臣を適材適所に差配。ミスをしても「何が悪かったかを説いた上で一度休ませ、再び任用している」と心憎い。
後継者の継政(1702~76年)が64歳での子のように「晩年まで世継ぎに恵まれなかった」こと、大名から江戸城の玄関番や僧、町絵師まで幅広く招いて「ようと、幕府内外の情報を手を尽くして入手していた」こと…。<女色ヲ好ム><昼夜酒宴>にも、事情が考えられそうだ。
「史料を追う限り、『土芥寇讎記』の記述は理解できない」と神原教授は首をかしげる。むしろ、光政時代より、将軍・幕府と大名の力関係に圧倒的な格差が確立した元禄期。津山藩、備中松山藩、福山藩、赤穂藩と近隣の大名家が次々につぶされる中で「人脈と情報力を基に藩運営の方向を見定め、トラブルを未然に防ぎながら藩を安泰に導いたのが綱政」。岡山藩の礎を築いた“もう一人の名君”の姿をそこにみる。
▽イメージの怖さ
旧岡山城下の東郊、操山山塊を背に臨済宗の名刹(めいさつ)・曹源寺(岡山市中区円山)がある。綱政の創建だ。
「藩主の菩提寺(ぼだいじ)というだけでなく、禅の道場として開放する意志を持って創建された。しかも一宗一派にこだわらず、境内に他宗派の塔頭(たっちゅう)も集め、広く仏教をまとめようとされた。綱政公は大きい」と原田正道住職(69)はうなずく。
自身の揮毫(きごう)になる「曹源寺」の扁額(へんがく)を掲げた大本堂の裏、池田家墓所(国史跡)に綱政は眠る。愚か大名とさげすむのも、希代の名君とただ祭り上げるのも違うだろう。実像は、史料を丁寧に見ていくことでこそ浮かび上がる。殿様自ら、歴史上の人物をイメージで語り継ぐ怖さを教えてくれているようだ。
元禄3(1690)年ころ、江戸幕府が作成した極秘の報告書で、こんなとんでもない人物査定を受けた大名がいた。備前岡山藩主池田綱政である。
一方―。天下の名園・後楽園(国特別名勝、岡山市北区後楽園)や名刹(めいさつ)・曹源寺と岡山藩主池田家墓所(国史跡、同市中区円山)、閑谷学校の現講堂(国宝、備前市閑谷)の造営に、児島湾の新田開発…。近世岡山を象徴する大事業をずらりと成し遂げたのもまた、綱政だ。
愚か大名か、名君か。極端に隔たったイメージの間にある実像は、果たして―。
愚か大名か、名君か、隔たる人物像 人脈と情報力で藩安泰に導く
それにしても、ひどい言われようだ。
<カクノゴトク不学文盲短才モマタ珍シ><昼夜酒宴・遊覧ヲ心トシテ、政道ニイロハズ><女色ヲ好ム事、倫ヲ超エタリ>…
江戸幕府の公儀隠密が作成したとされる「土芥(どかい)寇讎(こうしゅう)記」。水戸光圀や浅野内匠頭らおなじみの人物も含め、元禄期の大名243人の人物評を収める。中でも、岡山藩主池田綱政の評価はさんざんだ。
岡山市出身の歴史家磯田道史・茨城大准教授は、同書を基に著した「殿様の通信簿」で、旧藩士の家を継いだ祖父が声を潜めて語った「曹源公(綱政)は子どもを山ほど作った。その数、あわせて70人…」という衝撃の体験とともに「(元禄期の)『日本一の馬鹿(ばか)殿様』 そういわれても、おかしくない存在であった」と認める。
戦国の遺風を残す武将政治家、学者として世に聞こえた名君だった父光政(1609~82年)と際立つ落差。実際、綱政は長く、不肖の愚か大名と語られてきた…。
▽すごい教養人
筆跡も流麗な和歌日記、プロ絵師と見まがう絵画、業務上の詳細な覚書…。池田家伝来品を多く所蔵する林原美術館(岡山市北区丸の内)に2007年末、研究者らの関心が集まった。展示資料49件のほとんどが初公開という「池田綱政」展が開かれたのだ。
「字のうまさは光政以上。メモ魔といえるほどに“まめ”。『不学文盲』どころか、すごい教養人だと思う」。同美術館の浅利尚民学芸員は“評判”との違いに驚いたという。
同展を監修した神原邦男・川崎医療福祉大教授(近世文化史)は今も、綱政像の見直しを精力的に進める。藩政文書「池田家文庫」(岡山大付属図書館蔵)にある藩主の動向を記録した日記なども丹念に読む中で、浮かび上がってきた姿は―。
「大名なのに、目配り、心配りが非常にできた」。将軍徳川綱吉、側用人柳沢吉保や京都の公卿ら要所には「ここまでするか、というほど付き合いに抜かりがない」。藩内では、能吏の津田永忠ら家臣を適材適所に差配。ミスをしても「何が悪かったかを説いた上で一度休ませ、再び任用している」と心憎い。
後継者の継政(1702~76年)が64歳での子のように「晩年まで世継ぎに恵まれなかった」こと、大名から江戸城の玄関番や僧、町絵師まで幅広く招いて「ようと、幕府内外の情報を手を尽くして入手していた」こと…。<女色ヲ好ム><昼夜酒宴>にも、事情が考えられそうだ。
「史料を追う限り、『土芥寇讎記』の記述は理解できない」と神原教授は首をかしげる。むしろ、光政時代より、将軍・幕府と大名の力関係に圧倒的な格差が確立した元禄期。津山藩、備中松山藩、福山藩、赤穂藩と近隣の大名家が次々につぶされる中で「人脈と情報力を基に藩運営の方向を見定め、トラブルを未然に防ぎながら藩を安泰に導いたのが綱政」。岡山藩の礎を築いた“もう一人の名君”の姿をそこにみる。
▽イメージの怖さ
旧岡山城下の東郊、操山山塊を背に臨済宗の名刹(めいさつ)・曹源寺(岡山市中区円山)がある。綱政の創建だ。
「藩主の菩提寺(ぼだいじ)というだけでなく、禅の道場として開放する意志を持って創建された。しかも一宗一派にこだわらず、境内に他宗派の塔頭(たっちゅう)も集め、広く仏教をまとめようとされた。綱政公は大きい」と原田正道住職(69)はうなずく。
自身の揮毫(きごう)になる「曹源寺」の扁額(へんがく)を掲げた大本堂の裏、池田家墓所(国史跡)に綱政は眠る。愚か大名とさげすむのも、希代の名君とただ祭り上げるのも違うだろう。実像は、史料を丁寧に見ていくことでこそ浮かび上がる。殿様自ら、歴史上の人物をイメージで語り継ぐ怖さを教えてくれているようだ。






