箕作阮甫(津山市) 万能の洋学者
みつくり・げんぽ 1799~1863年。美作国西新町(現在の津山市西新町)出身。津山藩医貞固の三男として生まれ、父、兄の急死により12歳で家督を継ぐ。京都で吉益大輔に漢方医学を学び、1822年に津山藩医となる。その翌年、江戸に赴き、宇田川玄真について洋学を修める。江戸で医院も開業したが、火災に遭って洋学研究と翻訳に専念。39年の「蛮社の獄」で自殺した小関三英の後任として幕府天文方で外交文書や兵書などの翻訳に当たる。55年に隠居したが、幕府による官立洋学所・蕃書調所(東京大の前身)創設に参画し、教授職筆頭に任命。62年に幕臣に列せられるなど、洋学者として最高の扱いを受けた。写真は津山洋学資料館蔵。
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津山市を東西に走る旧出雲街道に沿って、江戸時代の町屋が今も軒を連ねる城東町並み保存地区。約180年前、この町に生まれ育った1人の青年が、大志を抱いて江戸へと旅立った。
津山藩医だった父を幼くして亡くし、代わって一家を背負うはずだった兄とも死別。生まれついての病弱で、右ひじにも障害のあった彼は、母と2人の貧しい暮らしの中で、家再興の夢を学問に求めていた。
青年の名は箕作(みつくり)阮甫(げんぽ)。後に、国の命運を左右する対外交渉の場で活躍し、日本の近代化に大きな役割を果たした洋学者だ。生家は今も保存され、彼の原点をしのぶことができる。
新たな洋学資料館 向学貫き外交面でも活躍
城東町並み保存地区の中心部に立つ箕作阮甫旧宅(津山市西新町、国史跡)。その東隣の路地を入ると、真新しい洋館が目に飛び込んできた。
幕末に津山藩が輩出した洋学者の資料約6400点を収蔵する津山洋学資料館。同地区東端にあった旧館の老朽化に伴い新築され、来年3月に開館する。
洋館風の本館には現代的なホール、れんが造りの展示室、焼き板の町屋的な収蔵庫が連なる。一見、和洋の建物の集合体に見えるが、実は1つの建物。阮甫の子孫である建築家故吉阪隆正氏に師事した富田玲子氏(70)の設計だ。
「西洋の知識を幅広く摂取し、歴史の表舞台で活躍した洋学者の生き方に重なる建物」と同資料館の下山純正館長。津山市は、新資料館と阮甫旧宅を中心に、城東地区を洋学の町として全国に発信する方針で、その核こそが阮甫の存在という。
翻訳から外交へ
阮甫が初めて洋学に触れたのは文政5(1822)年、24歳の時。津山藩医として江戸に赴いた彼は、当時一流の洋学者だった江戸詰の津山藩医宇田川玄真に入門。「星月に対しては距離を論じ、雷霆を聴きては、越列吉●児(エレキテール)を想い、必ず真理を考索して後ち已む」と後に述懐するほどに学問に打ち込んだ。
5年後に一旦津山に帰郷するが、天保2(31)年に志願して再び江戸へ。公務のかたわら、洋書翻訳に取り組み、日本初の医学雑誌「泰西名医彙講(いこう)」をはじめ、語学、地理学、兵学、科学など多方面での優れた訳書を世に送り出す。
「いわば、あらゆる分野に通じた“マルチタレント”。知識、見識ともに、日本屈指の学者だったといえる」と江戸時代の科学史を研究する電気通信大(東京都)の佐藤賢一准教授。出版を通して外国通としての名声は高まり、幕府天文方の蕃書和解御用(翻訳係)にも抜てきされた。
当時は、米露など通商を求める外国船の来航で、200年以上に及ぶ鎖国政策が揺らぎ始めた時代。阮甫の活動の場は学術から外交へと移っていく。
嘉永6(1853)年6月のペリー来航の際には、米大統領の国書を杉田成卿(杉田玄白の孫)とともに翻訳。同年7月にロシア使節プチャーチンが長崎を訪れると、応接使川路聖謨(としあきら)に随行して、翻訳事務を担当した。
川路のブレーン役として、重要な局面には必ず立ち会ったとも伝えられる。佐藤准教授は「激動の時代だからこそ、学者も実力で評価された。阮甫の活躍は、時代の要請でもあった」と語る。
◆
幕末という既存の価値観が揺らぐ時代にあって、向学の志を貫き、日本を代表する学者になった阮甫。その生き方は、現代の古里で顕彰されている。
津山市の「箕作賞」は30年間毎年、地域の学業優秀者を表彰。2002年には、地元のミュージカル劇団「きんちゃい座」(角野功一代表)が、阮甫を主人公にした「チューリップ咲いた 阮甫と四人の娘たち」を市内で上演した。
3年前に再演されるほどの人気で、脚本を手掛けた同市在住の劇作家山田美那子さん(72)は「書簡や著作を見ると、学問一辺倒でありながら、周囲への気遣いを忘れない優しさがある。恵まれない生い立ちをはねのけた強さと、温かな人柄が阮甫の魅力」と力を込める。
生誕210年となる今年。市教委は4月から、小中学生の学力向上を目指す「げんぽプロジェクト」を開始した。市教委学校教育課の小瀬善浩課長補佐は。「目標は子どもたちが勉学で自らの可能性を広げること。阮甫が最大の模範です」
※:●は父の下に多
津山藩医だった父を幼くして亡くし、代わって一家を背負うはずだった兄とも死別。生まれついての病弱で、右ひじにも障害のあった彼は、母と2人の貧しい暮らしの中で、家再興の夢を学問に求めていた。
青年の名は箕作(みつくり)阮甫(げんぽ)。後に、国の命運を左右する対外交渉の場で活躍し、日本の近代化に大きな役割を果たした洋学者だ。生家は今も保存され、彼の原点をしのぶことができる。
新たな洋学資料館 向学貫き外交面でも活躍
城東町並み保存地区の中心部に立つ箕作阮甫旧宅(津山市西新町、国史跡)。その東隣の路地を入ると、真新しい洋館が目に飛び込んできた。
幕末に津山藩が輩出した洋学者の資料約6400点を収蔵する津山洋学資料館。同地区東端にあった旧館の老朽化に伴い新築され、来年3月に開館する。
洋館風の本館には現代的なホール、れんが造りの展示室、焼き板の町屋的な収蔵庫が連なる。一見、和洋の建物の集合体に見えるが、実は1つの建物。阮甫の子孫である建築家故吉阪隆正氏に師事した富田玲子氏(70)の設計だ。
「西洋の知識を幅広く摂取し、歴史の表舞台で活躍した洋学者の生き方に重なる建物」と同資料館の下山純正館長。津山市は、新資料館と阮甫旧宅を中心に、城東地区を洋学の町として全国に発信する方針で、その核こそが阮甫の存在という。
翻訳から外交へ
阮甫が初めて洋学に触れたのは文政5(1822)年、24歳の時。津山藩医として江戸に赴いた彼は、当時一流の洋学者だった江戸詰の津山藩医宇田川玄真に入門。「星月に対しては距離を論じ、雷霆を聴きては、越列吉●児(エレキテール)を想い、必ず真理を考索して後ち已む」と後に述懐するほどに学問に打ち込んだ。
5年後に一旦津山に帰郷するが、天保2(31)年に志願して再び江戸へ。公務のかたわら、洋書翻訳に取り組み、日本初の医学雑誌「泰西名医彙講(いこう)」をはじめ、語学、地理学、兵学、科学など多方面での優れた訳書を世に送り出す。
「いわば、あらゆる分野に通じた“マルチタレント”。知識、見識ともに、日本屈指の学者だったといえる」と江戸時代の科学史を研究する電気通信大(東京都)の佐藤賢一准教授。出版を通して外国通としての名声は高まり、幕府天文方の蕃書和解御用(翻訳係)にも抜てきされた。
当時は、米露など通商を求める外国船の来航で、200年以上に及ぶ鎖国政策が揺らぎ始めた時代。阮甫の活動の場は学術から外交へと移っていく。
嘉永6(1853)年6月のペリー来航の際には、米大統領の国書を杉田成卿(杉田玄白の孫)とともに翻訳。同年7月にロシア使節プチャーチンが長崎を訪れると、応接使川路聖謨(としあきら)に随行して、翻訳事務を担当した。
川路のブレーン役として、重要な局面には必ず立ち会ったとも伝えられる。佐藤准教授は「激動の時代だからこそ、学者も実力で評価された。阮甫の活躍は、時代の要請でもあった」と語る。
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幕末という既存の価値観が揺らぐ時代にあって、向学の志を貫き、日本を代表する学者になった阮甫。その生き方は、現代の古里で顕彰されている。
津山市の「箕作賞」は30年間毎年、地域の学業優秀者を表彰。2002年には、地元のミュージカル劇団「きんちゃい座」(角野功一代表)が、阮甫を主人公にした「チューリップ咲いた 阮甫と四人の娘たち」を市内で上演した。
3年前に再演されるほどの人気で、脚本を手掛けた同市在住の劇作家山田美那子さん(72)は「書簡や著作を見ると、学問一辺倒でありながら、周囲への気遣いを忘れない優しさがある。恵まれない生い立ちをはねのけた強さと、温かな人柄が阮甫の魅力」と力を込める。
生誕210年となる今年。市教委は4月から、小中学生の学力向上を目指す「げんぽプロジェクト」を開始した。市教委学校教育課の小瀬善浩課長補佐は。「目標は子どもたちが勉学で自らの可能性を広げること。阮甫が最大の模範です」
※:●は父の下に多






