正阿弥勝義(津山市、岡山市) 天才金工家
しょうあみ・かつよし 1832~1908年。津山市二階町出身。彫金師中川勝継の三男で幼名は淳蔵。中川家は津山藩の祖森忠政に随行してきた金工の名門という。18歳で岡山藩に仕える正阿弥家の9代目を継ぎ、藩主用命の金工として刀装具の彫製に従事。当時、京都の名匠後藤家一乗の門人で徳川家などに勤めた実兄中川一匠に手紙で指導を受けていた。明治以降は1876年の廃刀令で需要が無くなり、美術工芸分野に転向。万国博覧会などに完成度の高い作品を出品し、加納夏雄、海野勝●とともに受賞を重ねた。67歳で京都に転居。77歳の時、脳卒中で亡くなり知恩院に葬られた。現在は岡山市の東山墓地に眠る。
※●は王へんに民 |
東の空が桜色に染まってきた。空車ランプを付けたタクシーがなめるように通りを流し、路地裏ではカラスが執念深くごみ袋を突いている。
午前5時前の岡山市北区田町、中央町。ネオンの消えた“夜の街”は、気だるい静けさに包まれていた。
幕末から明治期にかけて活躍した金工家正阿弥(しょうあみ)勝義が暮らしていたのは、この街の一角だ。日の出から日没まで食事以外は黙々と働き、外出といえば正覚寺(田町)へのお参りくらい。年に2日しか休まなかったが、それすら後に「損をした」と言い残したという。
きっと、手元が薄明るいこの時間にはもう仕事を始めていただろう。震天動地の時代を、技と信念で生き抜いた人なのだから。
超絶技巧で新時代を切り開く 伝統の力創造の糧に
ヘビ嫌いなら、長さ129センチの「糸瓜(へちま)釣花瓶」(倉敷市立美術館蔵)には鳥肌が立つかもしれない。うろこをぬらぬら光らせてヘチマに絡まるアオダイショウ。葉のすき間からかま首をもたげてカエルを狙う―。
「鶏(にわとり)香炉」(岡山県立博物館蔵)の題材は、土をほじくり返し、虫をついばむ鶏の親子。リンゴ大の香炉に、人の髪より細そうな羽根の模様、虫眼鏡が必要なほど小さな花々がみっしり彫られている。
作品の魅力はこの徹底した写実主義と、粋な遊び心だ。金、銀、銅、錫(すず)、鉄。1枚の金属板から彫り出された虫や鳥、草花は勝義の手で命を吹き込まれ、生き生きとした動き、手触り、そこに流れる時間まで感じさせる。
「再現は多分、不可能。すごいを通り越して、鬼気迫るような表現ですよ」。超絶技巧の解説を請うと、気鋭の金工作家佐故龍平さん(32)=玉野市玉原=は“お手上げ”のポーズで苦笑いした。「今、ここまで突き詰めて仕事ができる人がいるかどうか…。『時代』が、作らせたんじゃないですか」
◆
勝義は1832(天保3)年、現在の津山市二階町で金工を家職とする中川家に生まれた。幼少時から父に学び、18歳で岡山藩のお抱え彫金師正阿弥家の養子に。藩主の注文に応じて目貫(めぬき)、拵(こしらえ)など刀装具を作る安定した生活の中で、着実に腕を磨いていった。
ところが、目の前に延びていた道は、ぷっつり途絶えてしまう。明治維新―。
71(明治4)年、廃藩置県で雇用を解かれ、給米が断たれた。続いて76(同9)年、廃刀令によって刀に装飾を施す仕事が消えた。45歳の時だった。
「この時期、日本中が価値観の大転換を迫られた。伝統文化を捨て、西洋にならう。世間はそりゃあ混乱したでしょう」と、勝義の生涯と作品に詳しい臼井洋輔吉備国際大教授(66)=岡山市北区辛川市場=は思いを巡らす。当時、全国で失職した金工職人は数千人に上ったという。多くは廃業し、残った者も煙草(たばこ)箱、アクセサリーなど外国人好みにデザインされた貿易用の品で生計を立てた。
だが勝義は、このうねりにあらがった。
ひるまず、揺るがず。刀装具で培った技術を花瓶、香炉、彫像といった美術工芸品の創造へ振り向けて、日本の金工の新しい時代を切り開いた。「代々受け継がれた技の最終ランナーになる。そう腹を決め、完成形を目指したんだと思う」。臼井教授の持論だ。
◆
資金繰り、販路の開拓など苦労の一方で、次々と独自の技法を編み出していった勝義。題材の動物を自宅で1年ずつ飼って毎朝観察する―というふうに、情熱を注ぎ込んだ作品は国内外の博覧会で30回余も受賞を重ねる。特に、米国・セントルイス万博(1904年)で一等金牌(ぱい)を獲得した「緋(ひ)銅地鍾馗(しょうき)様彫刻花瓶」がフィラデルフィア博物館に買い上げられるなど、精密な描写は欧米の人々を驚嘆させた。
「昨年から今年にかけても2点、海外のオークションに出ていましたよ。今でも本当に人気があるんです」。日本最大の幕末・明治工芸コレクションを持つ村田理如(まさゆき)清水三年坂美術館長(59)=京都市東区=が教えてくれた。現在、国内で確認されている主な作品は約70点。生涯手掛けた作品はこの倍はあるとみられているという。
〈世の中の人と煙草のよし悪しは、煙となりて後にこそしれ〉
亡くなる前年、76歳の勝義は津山・中川家を継いだ次男あての手紙にお気に入りの古歌を引き、「作品は死後も残る。将来まで美しく、恥をさらさぬ仕事を」と助言した。
時代の潮目に、何を信じ、どう生きるか。没後100年を経た今、天才金工家は静かに問い掛けている。
午前5時前の岡山市北区田町、中央町。ネオンの消えた“夜の街”は、気だるい静けさに包まれていた。
幕末から明治期にかけて活躍した金工家正阿弥(しょうあみ)勝義が暮らしていたのは、この街の一角だ。日の出から日没まで食事以外は黙々と働き、外出といえば正覚寺(田町)へのお参りくらい。年に2日しか休まなかったが、それすら後に「損をした」と言い残したという。
きっと、手元が薄明るいこの時間にはもう仕事を始めていただろう。震天動地の時代を、技と信念で生き抜いた人なのだから。
超絶技巧で新時代を切り開く 伝統の力創造の糧に
ヘビ嫌いなら、長さ129センチの「糸瓜(へちま)釣花瓶」(倉敷市立美術館蔵)には鳥肌が立つかもしれない。うろこをぬらぬら光らせてヘチマに絡まるアオダイショウ。葉のすき間からかま首をもたげてカエルを狙う―。
「鶏(にわとり)香炉」(岡山県立博物館蔵)の題材は、土をほじくり返し、虫をついばむ鶏の親子。リンゴ大の香炉に、人の髪より細そうな羽根の模様、虫眼鏡が必要なほど小さな花々がみっしり彫られている。
作品の魅力はこの徹底した写実主義と、粋な遊び心だ。金、銀、銅、錫(すず)、鉄。1枚の金属板から彫り出された虫や鳥、草花は勝義の手で命を吹き込まれ、生き生きとした動き、手触り、そこに流れる時間まで感じさせる。
「再現は多分、不可能。すごいを通り越して、鬼気迫るような表現ですよ」。超絶技巧の解説を請うと、気鋭の金工作家佐故龍平さん(32)=玉野市玉原=は“お手上げ”のポーズで苦笑いした。「今、ここまで突き詰めて仕事ができる人がいるかどうか…。『時代』が、作らせたんじゃないですか」
◆
勝義は1832(天保3)年、現在の津山市二階町で金工を家職とする中川家に生まれた。幼少時から父に学び、18歳で岡山藩のお抱え彫金師正阿弥家の養子に。藩主の注文に応じて目貫(めぬき)、拵(こしらえ)など刀装具を作る安定した生活の中で、着実に腕を磨いていった。
ところが、目の前に延びていた道は、ぷっつり途絶えてしまう。明治維新―。
71(明治4)年、廃藩置県で雇用を解かれ、給米が断たれた。続いて76(同9)年、廃刀令によって刀に装飾を施す仕事が消えた。45歳の時だった。
「この時期、日本中が価値観の大転換を迫られた。伝統文化を捨て、西洋にならう。世間はそりゃあ混乱したでしょう」と、勝義の生涯と作品に詳しい臼井洋輔吉備国際大教授(66)=岡山市北区辛川市場=は思いを巡らす。当時、全国で失職した金工職人は数千人に上ったという。多くは廃業し、残った者も煙草(たばこ)箱、アクセサリーなど外国人好みにデザインされた貿易用の品で生計を立てた。
だが勝義は、このうねりにあらがった。
ひるまず、揺るがず。刀装具で培った技術を花瓶、香炉、彫像といった美術工芸品の創造へ振り向けて、日本の金工の新しい時代を切り開いた。「代々受け継がれた技の最終ランナーになる。そう腹を決め、完成形を目指したんだと思う」。臼井教授の持論だ。
◆
資金繰り、販路の開拓など苦労の一方で、次々と独自の技法を編み出していった勝義。題材の動物を自宅で1年ずつ飼って毎朝観察する―というふうに、情熱を注ぎ込んだ作品は国内外の博覧会で30回余も受賞を重ねる。特に、米国・セントルイス万博(1904年)で一等金牌(ぱい)を獲得した「緋(ひ)銅地鍾馗(しょうき)様彫刻花瓶」がフィラデルフィア博物館に買い上げられるなど、精密な描写は欧米の人々を驚嘆させた。
「昨年から今年にかけても2点、海外のオークションに出ていましたよ。今でも本当に人気があるんです」。日本最大の幕末・明治工芸コレクションを持つ村田理如(まさゆき)清水三年坂美術館長(59)=京都市東区=が教えてくれた。現在、国内で確認されている主な作品は約70点。生涯手掛けた作品はこの倍はあるとみられているという。
〈世の中の人と煙草のよし悪しは、煙となりて後にこそしれ〉
亡くなる前年、76歳の勝義は津山・中川家を継いだ次男あての手紙にお気に入りの古歌を引き、「作品は死後も残る。将来まで美しく、恥をさらさぬ仕事を」と助言した。
時代の潮目に、何を信じ、どう生きるか。没後100年を経た今、天才金工家は静かに問い掛けている。






