大山康晴(倉敷市) 将棋界の巨星
おおやま・やすはる 1923~1992年。現在の倉敷市西阿知町生まれ。12歳で大阪の木見金治郎9段に入門。兄弟子に、終生のライバルとして名勝負を繰り広げた升田幸三がいる。
50年、初タイトルの9段戦を獲得。52年に木村義雄一4世名人を破り関西の棋士で初めて名人となった。63年に棋界初の5冠(名人、王将、王位、棋聖、10段)を達成、名人18期をはじめ獲得タイトル計80期は歴代1位。 日本将棋連盟役員としても東京、大阪の将棋会館建設に尽力し、76~89年には会長を務めた。全国で普及に努め、青森県おいらせ町にも「大山将棋記念館」がある。写真は升田(左)の挑戦を退けた66年の第25期名人戦。 |
住宅街の一角に、小さな駅舎が立つJR山陽線西阿知駅(倉敷市西阿知町)。朝夕のラッシュ時をのぞいては、利用者もまばらな郊外の静かな駅だ。
今から74年前、この駅から1人の少年が旅立った。丸刈りに羽織はかま。父親に連れられ口を真一文字に結ぶ。将棋の棋士を目指し、修業に向かう後の15世名人大山康晴は、12歳の誕生日を迎えたばかりだった。
「若竹や苦節しのぎて天をつけ」。のぼり旗の勇ましい文字と、住民らの激励に見送られ、大阪行きの列車はホームを離れた。後に将棋界の巨星となる少年が、勝負の世界へ身を投じた瞬間だった。
ニ間続きの和室に、パチパチと乾いた駒音が響く。少しでも先を読もうと、幼い瞳が盤上を見つめる。将棋の15世名人・大山康晴を顕彰する倉敷市大山名人記念館(同市中央)。月2回の子ども将棋教室では、小中学生が、郷土の生んだ不世出の名人の肖像写真に見守られ腕を磨く。
通算勝利は歴代1位の1433。今に比べ棋戦、対局が少なかったにもかかわらず、2位の羽生善治(13日現在1064勝)ら現役を寄せ付けない。
特筆されるのは、百数十人の棋士のうち、名人とトップ10人だけが所属できる順位戦A級を、69歳で亡くなるまで45年間守り抜いたこと。相手の心理を読んだ〝受け将棋〟の達人。「忍」の一字で勝負に徹し、戦後の棋界に君臨した。
だが、自らの対局以上に力を入れたのが、子どもたちへの将棋の普及だった。記念館の教室は、その遺志を継いだ地元アマらが講師を務めている。
「練習すればするほどいろいろな指し方が見えてくる。将棋って本当に面白い」と総社北小4年の平田活己君(9っ)。将棋を覚えたころの大山も、こんな思いだったのだろう。
高梁川の東岸に、住宅地が広がる倉敷市西阿知地区。特産の花ござ製造業を営む家に、大山は生まれた。
自伝「勝負50年」によると、将棋を覚えたのは5歳のころ。近所の愛好者が集う自転車店をのぞいたのがきっかけだった。
間もなく地元強豪の平井長之丞に素質を見いだされ、徹底的に鍛えられた。大人向けの解説書を読み定跡を覚え、大会で実戦経験を積んだ。
1935年、小学校卒業とともに大阪の木見金治郎8段(倉敷市出身)に入門し、40年にはプロと認められる4段に昇段する。
ただ、将棋の基礎を身につけたのは故郷だった。花ござ製造の傍ら自らの道場で根気よく教えた平井、道場通いや大会出場に協力を惜しまなかった父、駒袋を毛糸で編んだ母、「勉強も大事だが、将棋も大いにやれ」と励ました小学校の担任教師。多くの人の理解で、才能は伸ばされた。
「勝負50年」に、当時を振り返り記す。「周囲の人々の好意と激励が、今の大山をつくってくれた…」
大山は55年、倉敷から東京に転居するが、晩年まで毎月のように帰郷した。記念館の北村実館長補佐(75)は「忙しい中、自分の対局の予定を変更してまで、地元での普及活動を優先した。学校を訪れ子どもを指導し、地域のファンと楽しそうに話し込む姿から、自分を育ててくれた倉敷への感謝の念が伝わってきた」と振り返る。
73歳の現役最年長棋士・有吉道夫9段(備前市出身、兵庫県宝塚市在住)は、15歳で大山の内弟子となり、その素顔を見てきた。「初めて西阿知の家を訪れたとき、2階から下りてきた先生の優しそうな顔にほっとした」。それが師匠の第一印象だ。
有吉9段には忘れられない光景がある。「先生が名人として地元の将棋大会に出席した時のこと。参加者一人一人にお茶を入れて回るので関係者が恐縮して…。私もあわてて手伝ったけど」。対局を離れた〝勝負の鬼〟は、気さくで気配り上手だった。
大山がこの世を去って17年。今年3月には、偉業を支えた妻の昌子さんも亡くなった。「1つの時代が終わったようで寂しいけれど、子どもでにぎわう記念館を見ると、先生も喜んでいるんじゃないかな。寂しがり屋だったから」。有吉9段はしみじみ語る。
強さと優しさを兼ね備えた大山。将棋の将来を考え続けたその心は、故郷でしっかり根を張っている。
今から74年前、この駅から1人の少年が旅立った。丸刈りに羽織はかま。父親に連れられ口を真一文字に結ぶ。将棋の棋士を目指し、修業に向かう後の15世名人大山康晴は、12歳の誕生日を迎えたばかりだった。
「若竹や苦節しのぎて天をつけ」。のぼり旗の勇ましい文字と、住民らの激励に見送られ、大阪行きの列車はホームを離れた。後に将棋界の巨星となる少年が、勝負の世界へ身を投じた瞬間だった。
ニ間続きの和室に、パチパチと乾いた駒音が響く。少しでも先を読もうと、幼い瞳が盤上を見つめる。将棋の15世名人・大山康晴を顕彰する倉敷市大山名人記念館(同市中央)。月2回の子ども将棋教室では、小中学生が、郷土の生んだ不世出の名人の肖像写真に見守られ腕を磨く。
通算勝利は歴代1位の1433。今に比べ棋戦、対局が少なかったにもかかわらず、2位の羽生善治(13日現在1064勝)ら現役を寄せ付けない。
特筆されるのは、百数十人の棋士のうち、名人とトップ10人だけが所属できる順位戦A級を、69歳で亡くなるまで45年間守り抜いたこと。相手の心理を読んだ〝受け将棋〟の達人。「忍」の一字で勝負に徹し、戦後の棋界に君臨した。
だが、自らの対局以上に力を入れたのが、子どもたちへの将棋の普及だった。記念館の教室は、その遺志を継いだ地元アマらが講師を務めている。
「練習すればするほどいろいろな指し方が見えてくる。将棋って本当に面白い」と総社北小4年の平田活己君(9っ)。将棋を覚えたころの大山も、こんな思いだったのだろう。
高梁川の東岸に、住宅地が広がる倉敷市西阿知地区。特産の花ござ製造業を営む家に、大山は生まれた。
自伝「勝負50年」によると、将棋を覚えたのは5歳のころ。近所の愛好者が集う自転車店をのぞいたのがきっかけだった。
間もなく地元強豪の平井長之丞に素質を見いだされ、徹底的に鍛えられた。大人向けの解説書を読み定跡を覚え、大会で実戦経験を積んだ。
1935年、小学校卒業とともに大阪の木見金治郎8段(倉敷市出身)に入門し、40年にはプロと認められる4段に昇段する。
ただ、将棋の基礎を身につけたのは故郷だった。花ござ製造の傍ら自らの道場で根気よく教えた平井、道場通いや大会出場に協力を惜しまなかった父、駒袋を毛糸で編んだ母、「勉強も大事だが、将棋も大いにやれ」と励ました小学校の担任教師。多くの人の理解で、才能は伸ばされた。
「勝負50年」に、当時を振り返り記す。「周囲の人々の好意と激励が、今の大山をつくってくれた…」
大山は55年、倉敷から東京に転居するが、晩年まで毎月のように帰郷した。記念館の北村実館長補佐(75)は「忙しい中、自分の対局の予定を変更してまで、地元での普及活動を優先した。学校を訪れ子どもを指導し、地域のファンと楽しそうに話し込む姿から、自分を育ててくれた倉敷への感謝の念が伝わってきた」と振り返る。
73歳の現役最年長棋士・有吉道夫9段(備前市出身、兵庫県宝塚市在住)は、15歳で大山の内弟子となり、その素顔を見てきた。「初めて西阿知の家を訪れたとき、2階から下りてきた先生の優しそうな顔にほっとした」。それが師匠の第一印象だ。
有吉9段には忘れられない光景がある。「先生が名人として地元の将棋大会に出席した時のこと。参加者一人一人にお茶を入れて回るので関係者が恐縮して…。私もあわてて手伝ったけど」。対局を離れた〝勝負の鬼〟は、気さくで気配り上手だった。
大山がこの世を去って17年。今年3月には、偉業を支えた妻の昌子さんも亡くなった。「1つの時代が終わったようで寂しいけれど、子どもでにぎわう記念館を見ると、先生も喜んでいるんじゃないかな。寂しがり屋だったから」。有吉9段はしみじみ語る。
強さと優しさを兼ね備えた大山。将棋の将来を考え続けたその心は、故郷でしっかり根を張っている。






