国吉康雄(岡山市) アメリカの画家
くによし・やすお 1889~1953年。岡山市出石町生まれ。06年岡山県立工業高校染織科を中退し渡米。ホテルなどで働いていたころ、ロサンゼルスの公立学校で教師に勧められ画家を志す。10年ニューヨークへ移り、後に教授を務めるアート・スチューデンツ・リーグなどで美術を学ぶ。素朴な作風から出発し、憂いのある女性像、暗喩(あんゆ)に満ちた静物画などを発表。28年一時的にパリへの移住を試みたほかは生涯ニューヨークで制作。48年に米ホイットニー美術館が現存画家初の大回顧展を開き、52年にはベネチア・ビエンナーレ米国代表作家に選ばれるなど、米国を代表する画家として高い評価を得た。美術家組合の初代会長として芸術家の地位向上にも尽力した。
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後楽園の玄関口、岡山市出石町は戦災を免れた古い町並みが残る。細い路地を入った民家の軒先に、ちょこんと牛にまたがる少年像が建っていた。国吉康雄の生誕碑だ。120年前の丑年、ここで生まれた国吉は16歳で海を渡りアメリカを代表する画家になった。
没後40年(1993年)を機に始まった住民らの顕彰活動が実り、「国吉の町」としてイメージが定着。文化の薫りに引かれて最近、カフェやギャラリー、移り住む作家も出てきた。4月に恒例のアートイベント「出石芸術百貨街」を開く山本賢昌さん(43)は「第二の国吉を」と夢見る。
◇
イーゼルに立てかけられた1枚の絵を20人の中学生が囲んだ。岡山県立美術館(岡山市天神町)で2月に行われた「対話型鑑賞」は、作者や題名などの情報を隠して、絵とじっくり向き合う。
褐色の画面、描かれた憂い顔の女性。気だるそうに手すりにもたれている。「場所はベランダかな」「目の下にクマができとる」「ご飯を食べられないほど心が傷ついている」
ぽつり、またぽつりと口をつく生徒の言葉でイメージが膨らんできたころ、1人がつぶやいた。「悩みを解決してくれる何かを待っているみたい」―。
作品はアメリカで活躍した画家国吉康雄の「夜明けが来る」。太平洋戦争終盤の1944年に描かれた。
■敵性外国人
そもそも国吉は、日本の移民政策にのって米西海岸に渡った労働者だった。コミュニケーションの手段としておぼつかない英語の代わりに描いた絵が、教師の目に留まり、美術の道を勧められたことで人生が変わる。ニューヨークで才能を開花、29年にニューヨーク近代美術館の「19人の現代アメリカ画家展」に選ばれて名声を確立した。
「アメリカンドリームをかなえた国吉は、アメリカ人になった。美術教育を与え、公正に評価してくれたアメリカの自由と平等、民主主義を信じた」と国吉研究の第一人者小澤善雄さん(66)=滋賀県草津市。
31年に父の見舞いと個展のため帰国したが、日本で無名だったため絵は売れず、さらに軍国主義に傾く不穏な空気を感じて「移住した国が私の国」と確信している。それだけに日米関係の悪化に伴い「帰化不能外国人」とされ、「敵性外国人」のレッテルを張られたのは耐え難かっただろう。
戦中も美術界での評価は揺るがず、西海岸の日系人のように収容所に入れられることもなかったのに、国吉はアメリカへの忠誠を示す。反日ポスターを制作し、日本向け短波放送で民主主義の尊さを訴え、米軍へ入隊志願の手紙も送った。
小澤さんは言う。「日本への郷愁はないでしょう。古里と言えば、自分が建てたニューヨーク郊外ウッドストックの家ですよ」
■ヒューマニスト
「それでも」と一呼吸置いて、岡山県立美術館の妹尾克己学芸課長はファイルを取り出した。帰国の際に親交を深めた義妹田川豊子さん=2005年没=にあてた手紙だ。添えられた写真に写るウッドストックの庭は、朝顔やスイセン、シキビといった日本の草花が植えられていた。
晩年、国吉は倉敷張り子の虎やこいのぼりを描いた。小澤さんは禅に代表される東洋ブームの影響とみるが、妹尾課長は「米社会のマイノリティー(少数派)だった国吉は、立場の弱い子供や女性に自らの思いを託し描いたヒューマニスト。軍国主義を憎んだが日本文化や岡山を忘れなかった」と考える。
戦中音信が途絶えた豊子さんを心配し、戦後は食料や衣服を送り続けた国吉。2つの国の間で揺れた心の葛藤が、冒頭の「夜明けが来る」だったのだろうか。最後になった53年2月の手紙は、秋に日本へ行くという知らせだった。3カ月後に国吉はがんで亡くなり、故郷の土を再び踏むことはなかったけれど―。
国吉が描いた絵は、生まれ育った出石町にほど近い県立美術館に“帰郷”している。2006年には大規模な回顧展が開かれ、生誕120年の今年も常設展「岡山の美術」の中で多角的な展示を予定。国吉作品を用いた美術鑑賞の教育教材は、県内の全小中学校に配られ使われている。
国吉はアメリカの画家だったが、今は岡山の画家として親しまれている。
没後40年(1993年)を機に始まった住民らの顕彰活動が実り、「国吉の町」としてイメージが定着。文化の薫りに引かれて最近、カフェやギャラリー、移り住む作家も出てきた。4月に恒例のアートイベント「出石芸術百貨街」を開く山本賢昌さん(43)は「第二の国吉を」と夢見る。
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イーゼルに立てかけられた1枚の絵を20人の中学生が囲んだ。岡山県立美術館(岡山市天神町)で2月に行われた「対話型鑑賞」は、作者や題名などの情報を隠して、絵とじっくり向き合う。
褐色の画面、描かれた憂い顔の女性。気だるそうに手すりにもたれている。「場所はベランダかな」「目の下にクマができとる」「ご飯を食べられないほど心が傷ついている」
ぽつり、またぽつりと口をつく生徒の言葉でイメージが膨らんできたころ、1人がつぶやいた。「悩みを解決してくれる何かを待っているみたい」―。
作品はアメリカで活躍した画家国吉康雄の「夜明けが来る」。太平洋戦争終盤の1944年に描かれた。
■敵性外国人
そもそも国吉は、日本の移民政策にのって米西海岸に渡った労働者だった。コミュニケーションの手段としておぼつかない英語の代わりに描いた絵が、教師の目に留まり、美術の道を勧められたことで人生が変わる。ニューヨークで才能を開花、29年にニューヨーク近代美術館の「19人の現代アメリカ画家展」に選ばれて名声を確立した。
「アメリカンドリームをかなえた国吉は、アメリカ人になった。美術教育を与え、公正に評価してくれたアメリカの自由と平等、民主主義を信じた」と国吉研究の第一人者小澤善雄さん(66)=滋賀県草津市。
31年に父の見舞いと個展のため帰国したが、日本で無名だったため絵は売れず、さらに軍国主義に傾く不穏な空気を感じて「移住した国が私の国」と確信している。それだけに日米関係の悪化に伴い「帰化不能外国人」とされ、「敵性外国人」のレッテルを張られたのは耐え難かっただろう。
戦中も美術界での評価は揺るがず、西海岸の日系人のように収容所に入れられることもなかったのに、国吉はアメリカへの忠誠を示す。反日ポスターを制作し、日本向け短波放送で民主主義の尊さを訴え、米軍へ入隊志願の手紙も送った。
小澤さんは言う。「日本への郷愁はないでしょう。古里と言えば、自分が建てたニューヨーク郊外ウッドストックの家ですよ」
■ヒューマニスト
「それでも」と一呼吸置いて、岡山県立美術館の妹尾克己学芸課長はファイルを取り出した。帰国の際に親交を深めた義妹田川豊子さん=2005年没=にあてた手紙だ。添えられた写真に写るウッドストックの庭は、朝顔やスイセン、シキビといった日本の草花が植えられていた。
晩年、国吉は倉敷張り子の虎やこいのぼりを描いた。小澤さんは禅に代表される東洋ブームの影響とみるが、妹尾課長は「米社会のマイノリティー(少数派)だった国吉は、立場の弱い子供や女性に自らの思いを託し描いたヒューマニスト。軍国主義を憎んだが日本文化や岡山を忘れなかった」と考える。
戦中音信が途絶えた豊子さんを心配し、戦後は食料や衣服を送り続けた国吉。2つの国の間で揺れた心の葛藤が、冒頭の「夜明けが来る」だったのだろうか。最後になった53年2月の手紙は、秋に日本へ行くという知らせだった。3カ月後に国吉はがんで亡くなり、故郷の土を再び踏むことはなかったけれど―。
国吉が描いた絵は、生まれ育った出石町にほど近い県立美術館に“帰郷”している。2006年には大規模な回顧展が開かれ、生誕120年の今年も常設展「岡山の美術」の中で多角的な展示を予定。国吉作品を用いた美術鑑賞の教育教材は、県内の全小中学校に配られ使われている。
国吉はアメリカの画家だったが、今は岡山の画家として親しまれている。






