上代淑(岡山市) 献身的女子教育者
かじろ・よし 1871~1959年。1877年6歳で松山から大阪に転居。89年梅花女学校卒、山陽英和女学校赴任。近くに岡山孤児院があり、設立者の石井十次と親交を持つ。93年米マサチューセッツ州マウントホリヨーク大へ留学、98年学校復帰。1902年山陽高等女学校教頭、欧米教育視察から帰国後の08年第6代校長。45年6月岡山空襲で、岡山市徳吉町の校舎が全焼、47年3月現在地の鐘淵岡山絹糸工場寄宿舎を買収移転、11月新校舎完成。57年藍綬褒章。59年死去。享年88。死後、岡山市平井に山陽学園短大、山陽学園大が開設された。顔写真は、山陽学園提供。
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「背筋を伸ばして」「袱紗(ふくさ)を取って」「棗(なつめ)を…茶杓(ちゃしゃく)を…」指導の女声が和室のしじまにりんと響く。礼儀作法を重んじる山陽女子高(岡山市門田屋敷)では、その教育の一環に茶道を取り入れている。
1年生が授業を受けているこの和室は、明治末から昭和の半ばにかけて、半世紀にわたり学園の校長を務めた上代淑(かじろよし)が最晩年を暮らした家の中だ。礼儀作法重視の背景には、淑の教育方針・思想が連綿と流れる。ここは、茶道授業の象徴的会場でもある。
近代女子教育の黎明期(れいめいき)からその道に携わり、生涯をささげた。黎明期、女子教育の充実にかけては、全国に名だたる岡山県にあって、その歴史はこの人を抜きには語れない。
51年間校長務め 女子教育にささげた人生
山陽学園同窓会長の矢部禮子さん(73)は、中学校の入学式で聴いた校長上代淑の言葉が忘れられない。強烈な印象として残っている。
新制なった山陽女子中の2期生。旧施設が戦災に遭って現在地の岡山市門田屋敷に移転して間もない1948年の入学だ。
淑、当時76歳。「あなた方にプレゼントをあげます」かっぷくのいい着物姿は、そう切り出した。何をもらえるのかと思いきや、それは言葉のプレゼントだった。
「家の宝となりなさい」。両親にとってはいい娘、嫁いではいい妻、いい嫁、いい母になれよという教えだ。
矢部さんは、軍国教育真っただ中で小学校時代を過ごした。「国に忠義などということばかりだったので、上代校長の言葉は、単語の一つ一つがそれまで聴いたことがなく、新鮮でした」
高校まで6年を過ごした。その間授業で淑の「訓話」もよく聴いた。「また同じことを言ってる、なんて思いながら聴いていたこともありますが、卒業したら言葉がいっぱい頭に残っているんですね」
ハイカラ先生
淑は、松山市に生まれた。明治維新後、武士の身分を失った父はキリスト者となり、牧師の道を選んだ。父が設立にかかわったこともあって、大阪で草創期のミッションスクール梅花女学校(梅花女子大の前身)に学び、15歳で受洗、18歳で現在の山陽女子中・高につながる山陽英和女学校に、教師で招かれた。
明治も中期に近づくころ、岡山県内ではキリスト教の関係者によって女子の中等教育を推進する学校が数校できていった。山陽英和女学校もその1つで、プロテスタントの岡山基督教会(現・日本キリスト教団岡山教会)の信徒によって設立された。
淑は設立4年目に赴任。22歳になる年に縁あって、米の名門女子大へ単身留学、日本の女性の留学はまだ珍しい時代に4年を学び通し、山陽女学校と名を変えた古巣に戻った。
洋行帰りのハイカラな先生は、流暢な英語を話し、注目を集めた。集めるだけでなく、教育者の素養も確かで、32歳で教頭、37歳にして校長に就任した。
以来、大正、昭和と替わり、太平洋戦争を経ての戦後へと、学校も高等女学校から、新制の中・高校に変遷していくなか、亡くなるまでの実に51年間その任を全うした。「愛と奉仕の精神」をモットーに、教え子を慈しみつつ、生徒たちが「山陽さん」と親しまれる名門女子校に育て上げたのだった。
▽顕彰
淑没して半世紀がたとうとしているが、教えはいまだ色濃く息づいている。中・高の1日は、淑の遺訓を読むことから始まる。「ねたまず憎まずたかぶらず」とか「広い大空のようにゆたかな心を」とか、平易な言葉の教えが日替わりでひと月分したためてあって、淑が生前「日めくり」と名付けて整理していたものを、今は現代風に直して「日々のおしえ」と呼んでいる。
これが毎朝、読み上げられるのだ。教室でも、職員室でも。
顕彰はモニュメントでも。学校正門右手には、チャペルを思わせるレンガ造りの上代淑記念館。ホールを備えた建物の一室には、上代淑記念室があって、淑の遺品や写真などが展示されている。
淑は結婚をせず、人生を学校だけにささげた。淑を研究する山陽学園短大助教の平野尚子さん(38)は、「女子教育せざるべからず」の言葉にひかれる。女子教育が必要とされなかった時代に、私財をなげうった人々の熱い思いで学校は設立され、幾多の経済的困難も乗り越えてきた。言葉の裏には、そんな先人の苦労と熱意が込められているように思える。「強いメッセージを感じます」
1年生が授業を受けているこの和室は、明治末から昭和の半ばにかけて、半世紀にわたり学園の校長を務めた上代淑(かじろよし)が最晩年を暮らした家の中だ。礼儀作法重視の背景には、淑の教育方針・思想が連綿と流れる。ここは、茶道授業の象徴的会場でもある。
近代女子教育の黎明期(れいめいき)からその道に携わり、生涯をささげた。黎明期、女子教育の充実にかけては、全国に名だたる岡山県にあって、その歴史はこの人を抜きには語れない。
51年間校長務め 女子教育にささげた人生
山陽学園同窓会長の矢部禮子さん(73)は、中学校の入学式で聴いた校長上代淑の言葉が忘れられない。強烈な印象として残っている。
新制なった山陽女子中の2期生。旧施設が戦災に遭って現在地の岡山市門田屋敷に移転して間もない1948年の入学だ。
淑、当時76歳。「あなた方にプレゼントをあげます」かっぷくのいい着物姿は、そう切り出した。何をもらえるのかと思いきや、それは言葉のプレゼントだった。
「家の宝となりなさい」。両親にとってはいい娘、嫁いではいい妻、いい嫁、いい母になれよという教えだ。
矢部さんは、軍国教育真っただ中で小学校時代を過ごした。「国に忠義などということばかりだったので、上代校長の言葉は、単語の一つ一つがそれまで聴いたことがなく、新鮮でした」
高校まで6年を過ごした。その間授業で淑の「訓話」もよく聴いた。「また同じことを言ってる、なんて思いながら聴いていたこともありますが、卒業したら言葉がいっぱい頭に残っているんですね」
ハイカラ先生
淑は、松山市に生まれた。明治維新後、武士の身分を失った父はキリスト者となり、牧師の道を選んだ。父が設立にかかわったこともあって、大阪で草創期のミッションスクール梅花女学校(梅花女子大の前身)に学び、15歳で受洗、18歳で現在の山陽女子中・高につながる山陽英和女学校に、教師で招かれた。
明治も中期に近づくころ、岡山県内ではキリスト教の関係者によって女子の中等教育を推進する学校が数校できていった。山陽英和女学校もその1つで、プロテスタントの岡山基督教会(現・日本キリスト教団岡山教会)の信徒によって設立された。
淑は設立4年目に赴任。22歳になる年に縁あって、米の名門女子大へ単身留学、日本の女性の留学はまだ珍しい時代に4年を学び通し、山陽女学校と名を変えた古巣に戻った。
洋行帰りのハイカラな先生は、流暢な英語を話し、注目を集めた。集めるだけでなく、教育者の素養も確かで、32歳で教頭、37歳にして校長に就任した。
以来、大正、昭和と替わり、太平洋戦争を経ての戦後へと、学校も高等女学校から、新制の中・高校に変遷していくなか、亡くなるまでの実に51年間その任を全うした。「愛と奉仕の精神」をモットーに、教え子を慈しみつつ、生徒たちが「山陽さん」と親しまれる名門女子校に育て上げたのだった。
▽顕彰
淑没して半世紀がたとうとしているが、教えはいまだ色濃く息づいている。中・高の1日は、淑の遺訓を読むことから始まる。「ねたまず憎まずたかぶらず」とか「広い大空のようにゆたかな心を」とか、平易な言葉の教えが日替わりでひと月分したためてあって、淑が生前「日めくり」と名付けて整理していたものを、今は現代風に直して「日々のおしえ」と呼んでいる。
これが毎朝、読み上げられるのだ。教室でも、職員室でも。
顕彰はモニュメントでも。学校正門右手には、チャペルを思わせるレンガ造りの上代淑記念館。ホールを備えた建物の一室には、上代淑記念室があって、淑の遺品や写真などが展示されている。
淑は結婚をせず、人生を学校だけにささげた。淑を研究する山陽学園短大助教の平野尚子さん(38)は、「女子教育せざるべからず」の言葉にひかれる。女子教育が必要とされなかった時代に、私財をなげうった人々の熱い思いで学校は設立され、幾多の経済的困難も乗り越えてきた。言葉の裏には、そんな先人の苦労と熱意が込められているように思える。「強いメッセージを感じます」






