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内山完造(井原市) 日中友好の礎

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少年時代の内山完造が神楽を舞った荒神堂。今も当時の面影を残す
少年時代の内山完造が神楽を舞った荒神堂。今も当時の面影を残す


 うちやま・かんぞう 1885~1959年。岡山県後月郡吉井村(現井原市芳井町吉井)で、村長を務めた内山賢太郎の次男として生まれる。12歳で地元の高等小学校を退学、大阪の商家へ奉公する。転職した先の京都で、後に同志社大総長となる牧野虎次牧師に出会い、キリスト教に入信。牧野の紹介で目薬販売の仕事を得て28歳で上海へ渡る。上海では妻と開いた内山書店を通し魯迅ら中国の文化人と親交を結んだ。戦後は日中の国交断絶の中、日本各地を巡って友好の必要性を講演。日中友好協会の初代理事長となり、中国残留日本人の帰国にも尽力する。中国政府の招きで渡航した北京で客死。
 今から120年ほど前の明治半ば。岡山県の西端、今の井原市芳井町に、神楽を舞わせれば近隣でも評判の少年がいた。

 山に張り付くように立つ小さな社・荒神堂が、子ども神楽の晴れ舞台だった。少年のはまり役は「まったり」と呼ばれる稲脊脛命(いなしはぎのみこと)。国譲りをめぐって争う神々に「待ったり、待ったり」と軽妙な節で筋道を説き、巧みに仲裁する。

 少年の名は内山完造。戦前から戦中にかけ、日中関係が最も不幸な時代。両国の思惑が交錯する中国・上海に「内山書店」を開き、文化交流に腐心した。

 一書店主の視点で平和を願い、自らの身の危険も顧みなかった姿は、少年時代に演じた「まったり」そのものだった。

 日中文化人の交流の場でもあった上海の内山書店での語らいも、こんなふうだったのかもしれない。

 胡弓(こきゅう)の音が流れる中、中国語、日本語交じりの笑い声が広がる。旧正月を翌日に控えた先月二十五日夜。岡山大の留学生宿舎(岡山市津島桑の木)で開かれた「春節祭」。中国では一年で最も重要とされる行事。岡山県内の中国人留学生約百人が、日本人の支援者や学生約二十人を招き、鍋料理でもてなした。

 「水を飲むときは、井戸を掘った人のことを忘れてはならない」―。こんなことわざが中国にはある。「日本で学べるのは、日ごろお世話になっている皆さんはもちろん、中日友好に尽くした先人のおかげ。われわれは彼らのことを決して忘れない」と同大大学院で学ぶ県中国留学人員友好連誼会副会長の韓亮さん(29)。「内山完造は井戸を掘った人の代表ですね」と語る。

 満州事変(一九三一年)、日中戦争開戦(三七年)、終戦、戦後の国交断絶と続く二十世紀前半、日中関係は冬の時代だった。そんな中、内山完造は一人の人間として中国人との友好を貫いた。

 よく知られるのが作家・魯迅との友情。社会改革を訴え小説や論評で権力批判した魯迅は、反国民党政府勢力の精神的支柱だった。上海に潜伏した魯迅と内山書店を通して知り合った完造は、祖国を思う気持ちと勇気ある行動に感銘し、危険承知で一時は自宅にかくまった。第六高等学校(現岡山大)で学び、後に中日友好協会名誉会長となる郭沫(かくまつ)若(じゃく)ら他の反政府活動家も支援、そのために戦後、国民党政府から国外退去処分を受ける。

 だが、命がけの行動は中国の人々の心に焼きつき、完造の没後、一九七二年の国交回復へつながっていく。

わんぱく少年

 完造の故郷・井原市芳井町を訪ねた。なだらかな山に囲まれた静かな田園地帯はかつて山陽道と備北地方を結ぶ交通の要衝だった。田畑の間、狭い道沿いに家並みが続く集落で完造は生まれた。元あった場所から移築されているが、瓦ぶき町家風の生家が残り、当時をしのぶことができる。

 少年時代は「塩辛」と呼ばれるわんぱくで、けんかやいたずらに明け暮れたらしい。一方で自伝の「花甲録」によると、相手が教師や親でも、不合理な言動にはしばしば反発していたようだ。

 「ただ乱暴なだけでなく、一本筋が通っていたのだろう。行動力や粘り強さ、反骨心。後の活動の原動力となる人間的資質は幼少時に培われた」とみるのは「先人顕彰会・井原」幹事長で僧侶の片岡良仁さん(54)=井原市芳井町吉井。特に、漢学にも通じた書家荻田雲涯の娘だった母・直は道徳心を重んじる人で、誠実さを何よりも大切にする教えが完造に大きく影響したという。

没後50年

 今年は完造の没後五十年に当たり、井原市や縁者が暮らす福山市などゆかりの地では顕彰機運が高まる。昨秋、同顕彰会が生涯を描いた漫画を出版したのに続き、五月には市民主体で記念式を開催。魯迅の長男・ 周海嬰 ( しゅうかいえい ) さんの講演を予定する。日中友好に情熱を注いだ人物像を、地域の将来を担う子どもや若者に伝えるのが目的だ。

 戦後、帰国した完造は、故郷へも度々足を運び、若者たちと語り合った。「『隣近所でのけんかはつまらない。同じ物を食べ同じ仕事をすれば仲良くなれた』と、友好の道理を分かりやすく話してくれた」。早川輝夫さん(83)=井原市芳井町吉井=は熱弁する姿が忘れられない。

 「完造は特別な公職に就いた『偉い人』ではない。しかし、心から中国人を理解しようとし、自分と出会う人を大切にしていた」と片岡さんは強調する。「国と国より人と人」。身をもって実践した友好姿勢は今日にも通じるだろう。

上海の内山書店

 上海の内山書店は、熱心なキリスト教信者だった完造と妻の美喜が1917年、聖書や賛美歌集などキリスト教関係の本を扱うため自宅玄関先で小さな本屋を開いたのが始まり。上海駐在の日本人銀行員、新聞記者らの評判となり、やがて文学や哲学書など幅広いジャンルの本をそろえるようになった。

 店内に机といすを置き本を自由に読めるようにしたほか、店頭には通る人がのどを潤せるよう給水器を設置。抗日運動が中国人の間に広がる中でも、日本人だけでなく中国人の学生や文芸作家も集うようになった。来店者は文学や芸術について自由に語り合い文化サロンの様相を見せた。

 中国人では魯迅や郭沫若をはじめ演劇芸術家の欧陽(おうよう)予倩(よせん)、劇作家の田漢(でんかん)らが出入り。日本からも小説家谷崎潤一郎、横光利一、林芙美子といった顔ぶれが訪れた。面倒見が良く話し好きの完造は、来客との会話を楽しみながら客同士を引き合わせ、「支那劇研究」「万華鏡」などの機関誌も発行した。

 45年の終戦とともに閉店を余儀なくされるまで、日中両国民が心を通わせる貴重な窓口だった。弟の嘉吉が始めた東京内山書店は、現在も東京・神田で中国書籍の輸入販売を続けている。


(2009年2月16日掲載)

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