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児島虎次郎(倉敷市、高梁市) 美術界発展の礎

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児島虎次郎記念館。並ぶ作品は、日本の印象派の先駆けとして残した彼の足跡を物語る
児島虎次郎記念館。並ぶ作品は、日本の印象派の先駆けとして残した彼の足跡を物語る


 こじま・とらじろう 1881~1929年。高梁市成羽町下原生まれ。1902年東京美術学校西洋画科選科に入学、大原孫三郎と出会い、援助を受ける。学校は成績優秀のため、1年から3年に飛び級となり、2年で卒業。08年ヨーロッパ留学。フランス、ベルギーなどで学ぶ。12年帰国、翌年石井友と結婚。19年、洋画買い付けの最初の渡欧、22年再び渡欧、翌年の帰途、エジプトへ立ち寄る。25年、「対露宣戦布告御前会議」の壁画製作に入る。28年過労のため倒れ、京都大付属病院へ入院、岡山医科大(現岡山大医学部)付属病院へ転院後の翌年3月8日死去。享年47。
 観光地倉敷を代表する名所の美観地区にある複合施設倉敷アイビースクエア。ここは大原孫三郎が育てたクラボウ(倉敷紡績)発祥の地だが、その一角に児島虎次郎記念館はある。

 生まれ故郷高梁市成羽町を舞台に、母と乳飲み子らの様子を描いた26歳の出世作「里の水車」をはじめとする虎次郎作品が展示され、彼が収集したオリエントの美術品も見ることができる。

 児島虎次郎。日本の印象派の先駆けであるとともに、孫三郎の支援の下、洋画作品を収集して、日本美術界の発展に大きな貢献をした人物である。

 高梁市成羽町の街並みを見下ろす鶴首山(かくしゅざん)(三九〇メートル)。備中地域に覇権を広げた戦国大名三村氏が拠点の山城を築いたところだ。その城址(じょうし)へといざなう遊歩道が整備されていて、登ると成羽町美術館の裏手に回る。

 背部に池を配した安藤忠雄設計の建築物は、上から見ると幾何学模様を描き、それ自体一級のアート作品だ。装飾を施さない鉄筋コンクリート造りは、冬枯れの山模様にピタリと収まるが、緑なすころは、それはそれでまた風情を醸すのだろうとも思える。

 美術館は一九五三年、児島虎次郎の顕彰を目的に旧成羽町立として誕生、現在のものは九四年に新築された。倉敷市の児島虎次郎記念館と同様、虎次郎作品やオリエントの美術品などが展示され、自慢の観光スポットでもある。

 虎次郎は、この美術館に近い、街並みを形成する一角の旅館を営む家に生まれた。

 倉敷芸術科学大教授で、陶芸家の児島塊太郎さん(61)は、虎次郎の孫だ。祖父の存在を強烈に意識して育った。祖父の生前こそ知らないが、その妻、つまり祖母に折に触れ祖父のことを聞かされたのだ。

 祖母は、友。岡山孤児院を営み、児童福祉の父として知られる石井十次の長女だ。塊太郎さんは、その口に上る志半ばで逝った祖父の無念が、心に残った。

 一度は画家を夢見る。高校生の時、同年代で描いた祖父のデッサンを見た。「足元にも及ばないと思いました」。それを契機に方向転換、曲折を経て織部焼の陶芸家となり、総社市に窯を築いている。

画才

 虎次郎は確かに、子どものころから画才を発揮していた。やがて画家の道を志し、東京美術学校(現・東京芸術大)西洋画科選科に入学し、知り合いの口利きを介して、倉敷の資産家大原孫三郎の援助を受けることになった。

 〇七(明治四十)年、東京府主催の勧業博覧会が開かれ、その美術展に虎次郎は、美術学校の恩師黒田清輝に勧められて、作品を応募した。本格美術展初応募だった。二点出品した。

 一点は石井十次が運営していた岡山孤児院へ寝泊まりして、病気の院児を気遣う子どもたちと世話を焼く主婦(保育士)を描いた「なさけの庭」。これは一等賞を得、時の皇后に気に入られ、宮内省買い上げとなった。もう一点は、故郷成羽が舞台の「里の水車」。これまた虎次郎の存在を強烈に印象付ける作品になった。

 孫三郎は一等の快挙を喜び、虎次郎かねて念願のヨーロッパ留学を許した。ほぼ五年を過ごし、大正と改元されたばかりの日本へ帰ると、孫三郎による結婚話が待っていた。相手は、友である。孫三郎夫妻の媒酌により結婚。虎次郎三十二歳の誕生日の前日、友二十三歳だった。

大原美術館

 二人は現在の倉敷市酒津に今も残る大原家別邸を住まいに与えられた。虎次郎は画業一筋に歩めばいい環境を与えられたのだが、そこにとどまらないのが虎次郎の虎次郎たるゆえんである。

 虎次郎は、日本芸術界のためを思い、孫三郎に西洋美術の購入を懇願、許されてヨーロッパを買い歩く。これが没後の三〇(昭和五)年、大原美術館開館につながったことは、有名である。

 虎次郎の研究で博士の学位を得た倉敷芸術科学大准教授の松岡智子さんは、もう一つの功績に、フランスやベルギーとの文化交流を挙げる。「美術史上の一洋画家にとどまらず、奥行きのある人」と特徴づけている。

ツーショット

 写真は、児島虎次郎・友の結婚当日に撮られたものと思われる(児島塊太郎さん提供)。結婚後住んだ倉敷市酒津の大原家別邸は無為村荘と呼ばれるようになり、アトリエも建てて、虎次郎は画業に励んだ。

 孫三郎の庇護(ひご)があるために、生活には困らず、絵を売ることをしなくて済んだし、洋画の買い付けも兼ねたヨーロッパ行、帰途のエジプト訪問、中国・韓国行など外遊もし、ある意味幸せな画家生活だったが、依頼を受けて44歳で取り組み始めた明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館の壁画「対露宣戦布告御前会議」が命を縮めた。

 皇室崇拝者の虎次郎は必死に取り組むが、一方で作品作りに違和感がぬぐえなかった。「虎次郎の作品じゃないと下絵を見て分かった。描きたくなかったんでしょう」と児島塊太郎さん。

 壁画は未完のまま虎次郎は死去。親友の吉田苞(しげる)が完成させた。


(2009年2月1日掲載)

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