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肉体的、精神的な疲労がピークに達した時、安原さんはユニホームを脱ぐ決意をした
第2部 やさしい手 (5) 一人きりの夜

  のしかかる不安大きく

 三年前のある夜。岡山市内の認知症対応型グループホームで“異変”が起きた。

 「ドンドンッ! ドンドンッ!」

 午前零時すぎ。耳をつんざくような音が響いた。つえを振り回して部屋から出てきた男性が、壁をたたき、床を突く。大声で何か叫んでいた。

 その日の夜勤は安原道代さん(36)=仮名=ただ一人。職場に来てまだひと月に満たない新人だった。

 先輩から、男性はおとなしい性格と聞いていた。でも、その日は別人のよう。どうしていいか分からず、リビングの掘りごたつにとっさに隠れた。体の震えが続いた。

              

 「ベテラン職員なら、駆け寄って部屋に連れて帰れたはず。でも、私には自信がなかった」と安原さん。

 入所者九人に対し職員は五人。当時は二人が体調を崩し、実質三人で二十四時間ケアを担っていた。

 夜勤が週三、四回も回ってきた。午前六時に出勤し、昼間の業務の後、夜勤をこなして翌日午後五時まで勤務。疲れを取る間もなく、次の日の午前七時から働いたこともある。“非常事態”とはいえ、過酷な勤務は二、三カ月続いた。

 肉体的、精神的な疲労がずしりと、安原さんにのしかかった。

              

 介護労働安定センター(東京)が二〇〇五年、全国のグループホーム、特別養護老人ホーム計二百五十カ所の千二百五十人を対象に行った調査がある。

 ストレスの要因として、夜勤中何か起こるのでは、という「不安」を挙げた人は81・7%。「低賃金」や「休憩が取りにくい」を上回った。

 グループホームの夜勤者は一ユニット(定員九)につき、一人以上と規定されている。しかし人手不足やコストを考え、複数配置するところは少ない。

 岡山県立大の谷口敏代教授(介護福祉学)は「グループホームは少ない職員と利用者が濃密な人間関係を築き、家庭的な雰囲気をつくり出せる一方で、職員にストレスも生じやすい」と指摘。施設側にはそうした認識が求められ、非常時の備えも欠かせない。

 認知症介護の切り札として急速に普及したグループホームは、全国で一万カ所に迫る。かかわる職員のストレスをいかに軽減し、人材と介護の質を確保するかは喫緊の課題だ。

              

 〇六年一月、長崎県のグループホームで起きた火災は、入所者九人のうち七人が死亡。防災設備や夜勤体制の課題がクローズアップされるきっかけになった。

 「もし私が夜勤だったら…」。その年の末、火災のテレビ映像を目にした安原さんは自問自答した。

 充実した余生を送る手助けがしたいと、月給三十万円の職場から転職。長い年輪を刻んだ人の人生に触れる喜びを知った。料理や掃除の仕方を優しく手ほどきしてくれる女性にも出会えた。

 だが、やりがいを上回る不安の大きさに、張り詰めた糸はプツンと切れた。

 私ならとても全員を助けられない―。新年を迎え、ほどなく辞表を出した。あの一人きりの夜勤から七カ月がたっていた。

(2009年3月11日朝刊掲載)

 


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