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| 粟屋剛氏 |
緊急寄稿 緊急寄稿 病気腎をめぐって 3 岡山大大学院教授 粟屋剛 問われる「真の倫理」
宇和島徳洲会病院の万波誠医師らの病気腎移植について、今回、日本移植学会など関係四学会が全面否定する声明を出した。その主な根拠としては三つあるようだ。一つ目は、提供患者と移植患者の双方に医学的な適応がないという点、二つ目は実験的な医療であるという点、三つ目は倫理委員会を通すなどの手続きを踏んでいないという点だ。以下、これら三点について考えてみる。
第一に、「医学的な適応がないから問題あり」といえるだろうか。まず提供患者についていえば、「医学的に摘出の必要がなかった」というだけで問題があるとはいえない。仮に医学的に摘出の必要がなかったとしても、患者がそのことの説明をきちんと受けて納得、同意していれば、すなわち、インフォームドコンセント(十分な説明と同意)があれば、原則的には問題はない。医師が、「がんの腎臓ではあるが摘出の必要はない」といくら説明しても患者が摘出を望む場合など、患者の意思が優先される。なお、移植のために健康腎を摘出する場合はまさに医学的な適応はない。
ただし、提供患者がきちんとした説明を受けていなかったり、医師が微妙に誘導して患者の同意を得たりしていれば、それは当然、倫理的、法的、社会的に非難される。ついでにいえば、医師の行為が「最初に移植ありき」で、提供患者への治療がおろそかにされていたとすれば、それはとうてい、許されることではない。さらには、「廃棄される予定の腎臓だから自由に使ってよい」ということにも原則的にはならない。
次に移植患者についてはどうか。例えばがんの腎臓を移植されるという場合、患者がそのことの説明をきちんと受けて納得、同意していれば原則的には問題はない。「がんの転移の可能性はあるが、どうしてもその腎臓の移植を受けて苦しい透析から逃れたい」などという場合、その患者の意思が優先される。それはまさに自己決定の問題だ。ここではもちろん、患者がリスクを引き受ける。患者にとっては一種の賭けの要素があるだろう。
第二に、「実験的な医療だから問題あり」といえるだろうか。実験的な医療であるというだけでは問題があるとはいえない。実験的な医療は世界中で毎日行われている。ここでの問題もインフォームドコンセントがきちんとなされているかどうかだ。
第三に、「倫理委員会を通すなどの手続きを踏んでいないから問題あり」といえるだろうか。確かにそういえるであろう。しかし、だからといって、それは病気腎移植のコンセプト自体を否定する根拠にはならない。
万波医師らの行為が具体的にどう評価されるかという問題と、病気腎移植のコンセプト自体の妥当性の問題とは別だ。大事なのは「何が倫理か」という点だ。手続き違反を理由に病気腎移植の道を閉ざして、救えるはずの患者を救わないのが果たして真の倫理といえるかどうかだ。医師の職業倫理の根幹は苦しんでいる患者を救うことだ。もちろん、だからといって何をしても許されるというわけではないが。
あわや・つよし 九州大理学部、法学部卒。徳山大経済学部教授などを経て、2002年4月から岡山大大学院教授。専門は生命倫理学。02年11月から日本生命倫理学会理事。山口県美祢市出身。56歳。
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