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| 揺れ続けるわが国の移植医療。その行方は、まだ見えない=2月、岡山大病院の脳死肺移植(同病院提供) |
第5部 足踏み 13 宝物 問われる命のリレー
「あの半年間。お金で買うことのできない宝物のような時間でした」
取材班に寄せた手紙で、岡山県南の女性=五十代=は振り返る。
十年間の透析をへて一九九七年、献腎移植。元気な体を取り戻した。しかし半年後に移植腎が機能しなくなり、再び透析生活に戻った。
移植を受けたその年、日本では、脳死での臓器提供に道を開く臓器移植法が施行された。だが、以後十年間での脳死移植はわずか五十六例にとどまる。臓器提供者はあまりに少ない。
「病気の苦しさ、そして腎臓をいただくありがたさは、やはり当事者や家族だけにしか分からないのでしょうか」と女性は思う。
一方で、女性はこうも言っている。「でも、当時はうれしさよりも、亡くなられた方への悲しみで涙が止まりませんでした」
冷徹な事実としての生と死が交錯する命のリレーの中で、患者の心は揺れる。
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二〇〇六年十一月。瀬戸内の医師らによる病気腎移植が表面化した。
「目の前に困っている患者さんがおる。使えるものがあれば、病気のものでも使う」。宇和島徳洲会病院(愛媛県宇和島市)の万波誠医師の論理は「明快」だった。
日本臓器移植ネットワークに登録しても、実際に移植のチャンスに巡り会えるのは「宝くじ」の確率とさえ言われる。
「目の前の患者を救う」ために万波医師らが示した「第三の道」は、生体移植患者らから支持を得た。しかし、日本移植学会などの調査結果は「ノー」だった。
移植医療は、患者と医師という通常の関係のほかに、ドナー(臓器提供者)という「第三者」の人権が加わる特殊な医療だ。公平、公正、透明性、そして十分なインフォームドコンセント(説明と同意)が求められる理由がそこにある。
今回の問題は、病気腎使用の可否よりも、むしろ「和田心臓移植」(一九六八年)以来の不信から出発した移植医療そのものが、あらためて問われたともいえるだろう。
法施行から十年で、わが国の移植医療も揺れている。
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人の死を二つに分け、ドナーや家族が臓器移植を希望する場合のみ、脳死を「人の死」とした臓器移植法。医師や法律家、宗教者らをも巻き込んだ論争の末にたどりついたわが国の「国民的合意」だ。
だが、心臓が動き、体も温かい「脳死」への戸惑いはなお根強い。
普及のかぎを握るドナーカードの所持率は一割に達していない。救命医療の最前線でも、医師や看護師たちが脳死を「死」とすることへのジレンマを抱えている。
国内では圧倒的に足りない臓器を求めて日本人が海外渡航するケースが続く現状から、小児移植を可能にする改正案が今国会で審議入りした。しかし、法案の行方は見えていない。
日本の移植医療はどこへ行くのだろうか。
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「ギフト・オブ・ライフ(命の贈り物)」。移植を受けなければ助からない患者がおり、死後に臓器を提供したいという善意がある。移植医療を米国ではそう呼ぶ。
献腎移植から半年後、再び透析に戻った女性は、取材班への手紙でこうも語っている。
「あの半年があるから、今も前向きに、明るく生きていけるのだと思っています」
その女性が、もし自分だったら。もし自分の家族だったら―。
その立場に立ったとき、移植医療の何が見えてくるのか。私たち一人ひとりが問われている。
(臓器移植取材班)
=おわり=
シリーズは、二羽俊次、鈴木義治、臼杵正純、井上光悦が担当しました。
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