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| 生体肝移植から5日後の広田祐一さん。母親の肝臓の一部をもらい体調は劇的に回復した=2002年2月、岡山大病院 |
第4部 生体の光と影 1 プレゼント 元気くれた母の肝臓
涙が止まらなかった。「ああ、生きてる。助けてやれた…」
二〇〇二年二月、岡山大病院(岡山市)。広田元子さん(49)=同市江崎=は傷ついた体で車いすに乗り、子どもがいる集中治療室(ICU)を訪ねた。不思議と自分の痛みはなかった。
中学一年だった長男祐一さん(18)に、自分の肝臓の一部を移植した翌日。
「終わったよ。もう大丈夫よ」
身長一四〇センチ、体重三三キロ。か細い体で横たわった祐一さんは、ぼんやりと目を開けた。
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「入退院地獄の十三年間でした」。元子さんは振り返る。
胆道閉鎖症。肝臓と十二指腸をつなぐ胆道が機能せず、脂肪の吸収を助ける胆汁が流れない。一万人に一人とされる難病だ。
生後四十五日目、祐一さんは肝臓の障害から脳内出血。肝門部と腸をつなぐバイパス手術で胆汁は流れるようになったが、肝硬変からくる静脈瘤(りゅう)が頻発。内視鏡検査と治療は約四十回にも上った。脾臓(ひぞう)がはれ、腹部は大きくせり上がった。
命にかかわる吐血も二度。就学してからは周囲との成長の差がどんどん大きくなる。置き去りにされるような不安。「欠席や早退…、好きな体育も見学ばかり」。祐一さんも悶々(もんもん)とする日々だった。
主治医に移植を勧められ、初めて岡山大病院を訪ねたのは〇一年十月。担当した八木孝仁医師(49)=同大病院講師=は家族に移植のリスクを説明した上で、祐一さんを励ました。
「ゆう君、移植すれば旅行もできる。将来、仕事もできるようになる。入退院は大変だったろうけど、先生が元気にしてあげる」
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肝臓は、腎臓や肺と違い、唯一、再生する臓器だ。切除されても、大きさと機能は一年でほぼ元に回復する。生体移植が可能なのはそのためだ。
国内では一九八九年、島根医大で、父親と胆道閉鎖症の一歳男児との間で初めて行われた。
一九九七年に臓器移植法が施行されるまで、移植を希望する子どもは海外へ行くしかなかった。国内では迷路のような脳死論争。島根医大はそこに「生体移植」という大きな風穴を開けた。
執刀した永末直文医師(64)=福岡市=は「目の前に死にそうな患者がいる。医師としての使命感だった」と話す。
しかし、生体移植は「健康なドナー(臓器提供者)の体にメスを入れる」という医学的、倫理的な問題がつきまとう。
八木医師も「生体移植はドナーに百パーセントの不利益がある。そこを埋めるのは家族の『慈愛の心』だ」という。
切実な肉親の情に押される形でスタートした日本の生体肝移植。二〇〇五年までに、約三千八百の症例が積み重なった。
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祐一さんは、手術後四十四日目に無事退院。約一カ月後には、念願の体育の授業に参加した。高校では陸上部に所属。片道三十分の道のりを自転車で通った。
「母の肝臓が、僕に元気をくれた」と祐一さん。移植当日は二月十四日だった。「チョコじゃない、肝臓のプレゼント」
元子さんは「移植が、親子のあきらめかけた人生を、また始めさせてくれた」と言う。ただ、今は“もう一つの現実”にも直面している。
「すべてバンザイではない。『明と暗』というか…。逃れられない十字架も背負っているんです」
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脳死移植が進まぬ日本で主流になった生体移植。多くの命が救われた半面、患者やドナーへのさまざまな問題もはらむ。第4部は、生体移植の光と影を見つめる。 |