 |
| ローカルネットワークの拠点だった岡山大医学部。関連病院を回り、死体腎の提供を呼び掛けた |
第2部 命をつなぐ 7 ローカルネット ドナー求め病院巡り
「死体腎があればよろしくお願いします」
一九七〇年代後半から九〇年代初め。岡山大第一外科教授だった折田薫三名誉教授(76)は、岡山、広島、兵庫県などの救急医や脳神経外科医のもとを巡り歩いた。
訪問先は、同大の関連病院。医学界で同門と呼ばれる同窓の人脈が頼りだった。西は山口県岩国市、東は兵庫県姫路市付近まで、協力病院は十六施設に上った。
腎臓は心停止三十分以内に取り出さないと移植に使えない。「ドナー(臓器提供者)が発生した」と連絡を受けると、日曜、深夜の別なく車で駆け付けた。
中四国で初めての死体腎移植を七七年に行って以来、折田名誉教授は退官(九六年)までに約五十人のドナーから腎臓を摘出。主に中国地方の患者に移植された。
□ ■
このころ四国では、愛媛県の万波誠医師(66)がやはり病院詣でを繰り返していた。
拠点は当時勤務していた市立宇和島病院(愛媛県宇和島市)。弟の廉介医師(61)=岡山市=や、連携する仲間の医師とともに、瀬戸内に独自のローカルネットワークを築いた。
今も透析を続ける玉野市の男性(69)は「高松で死体腎が出た。HLA(白血球の型)の検査次第では移植のチャンスが回ってくる」と連絡を受けたことがある。相手は岡山市内の勤務医だった廉介医師。
「生体腎移植の準備をしていて突然言われた。『なぜ、四国からドナーが?』とびっくりした」。八七年ごろのことだという。
折田名誉教授は、各地で移植医が東奔西走し、ドナーの掘り起こしをした当時を懐かしむ。
「いわば『群雄割拠』。それぞれの地域の中で移植医自身が頭を下げて病院を回り、移植への熱意を伝えていた」
■ □
国が公的なネットワークづくりに着手したのは七八年から。八六年までに全国十四カ所の移植施設に地方腎移植センターを設置した。移植希望者の登録やHLA検査、レシピエント(移植者)選定を公平に行い、地域格差を埋めるねらいがあった。中国地方では国立岡山病院(現国立病院機構岡山医療センター)が選ばれた。
とはいえ、地方センターの中には移植実績のない施設もあり、その後も「ローカルネット」への依存は続くことになる。
例えば国立岡山病院には移植医がいなかった。八八年になってようやく、岡山大第一外科から田中信一郎医師(57)が派遣された。
「センターに直接寄せられる情報は少なく、岡山大からドナー情報を教えてもらった。折田先生らと臓器摘出に出掛けたことも少なくなかった」と田中医師は振り返る。
□ ■
腎移植の流れを大きく変えたのは、九五年の日本腎臓移植ネットワーク(九七年に日本臓器移植ネットワークに改組)の設立だった。地方センターは廃止され、全国が一元化された。
しかし、移植医療の透明性、公平性が確保された一方、腎臓が地元以外に運ばれるケースが移植医の熱意を薄れさせる。ローカルネットの大部分は消滅していった。
折田名誉教授は「全国ネットとローカルネットが両立できるシステムになればよかったが、地方の努力は考慮されなかった形だ」と残念がる。
全国の死体腎移植件数は、八九年の二百六十一件をピークに減少を続け、二〇〇六年は百九十七件にとどまった。 |