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| 血液を濾過して命をつなぐ人工透析。装置の改良で患者の寿命は伸びたが…=岡山市の透析施設 |
第2部 命をつなぐ 2 人工腎臓 70年代 苦難の幕開け
フロアにはなまぐさい血のにおいが充満していた。いつもタオルと洗面器が離せなかった。血液透析中の急激な血圧低下に耐えられず、ベッドの上でしばしば嘔吐(おうと)したからだ。
岡山県内で最長、三十六年の透析歴を持つ岡山市の山崎晴子さん(65)=仮名=が、一九七〇年代初めの透析室を振り返る。
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七一年に結成された患者団体・全国腎臓病協議会(東京)によると、このころ、透析が必要な腎不全患者は全国で五千人とも一万人ともいわれた。これに対して、透析装置はわずか約六百五十台しかなかった。
経済的な負担も深刻だった。大卒初任給が四万~五万円の時代に、健康保険本人以外の家族や国民保険加入者の自己負担は月に十万から数十万円。家や田畑を売って治療費を工面する人もいた。
七一年二月。山崎さんは妊娠中毒症による腎機能低下が原因で、透析生活に入った。県内には透析施設が数カ所しかなく、ようやく空きの出た倉敷市の病院に入院した。夫と二歳の娘がいたが、岡山市の自宅に戻れるのは週末だけ。市内に開設された施設に転院できるまで四年半、家族との別居生活が続いた。
「『五年も生きれば…』というのが周りの空気。絶望感と死への不安で、食事も受け付けませんでした」
当時の透析は、先進的で特殊な医療。一家の主が“優先”されることが多かった。
「治療を待っている人は大勢いる。生半可な気持ちでは装置がもったいない」。主治医の厳しい言葉が山崎さんの耳に残っている。
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透析医療が欧米から国内に導入されたのは五七年ごろ。主流は、体外で血液を濾過(ろか)する血液透析。当時は「人工腎臓」と呼ばれた。急性腎不全の治療が目的で、その後、七〇年ごろから慢性腎不全の臨床への応用が普及し始めた。岡山県では六八年に二台が試験導入されている。
装置のほとんどはアメリカ製だったが、性能は悪かった。
七二年から透析医療にかかわる日本透析医会岡山県支部長の草野功医師(68)=岡山市=は「透析液を通すセロハンが頻繁に破れ、危なくて目を離せなかった。国内の繊維メーカーの担当者と装置の改良についてよく議論を交わした」という。
トラブルも続発。山崎さんも透析中に呼吸困難に陥った。偶然見舞いに来た父が主治医を呼んで一命を取り留めたが、両隣の患者は亡くなった。後で、装置が一斉に故障したと聞かされた。
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七二年十月、身体障害者福祉法に基づく更生医療(現自立支援医療)が適用され、透析患者の負担は大きく減った。装置の性能も国内メーカーの参入で徐々に向上した。
現在、国内の透析患者は約二十六万人。五年生存率は63・1%(日本透析医学会調べ)。透析は誰でも受けられる「日常の医療」になった。
だが―。日本の透析患者は今、世界の患者の約20%を占める。「透析王国」の異名もあるほどだ。それは、腎移植が一向に進まない現実の裏返しでもある。
わが国の腎移植をリードしてきた一人、太田和夫・東京女子医大名誉教授は「欧米では、透析は移植までのつなぎの医療だ」と言う。
「日本の患者は長生きするようになった。でも前途の展望がない。それが“生き地獄”という言葉を生んでいる」 |