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| 万波誠医師が山口大を卒業後に赴任した市立宇和島病院。腎移植に関心を持ち、米国へ留学した |
第1部 病気腎の波紋 2 原点 どうせ捨てる臓器なら
国特別史跡・閑谷学校を北へ約三キロ。備前市吉永町岩崎地区は、周囲のなだらかな山々を縫うように八塔寺川が流れている。宇和島徳洲会病院(愛媛県宇和島市)の万波誠医師(66)は少年時代をこの地で過ごした。
「小学生のころはヘビを首に乗せて見せびらかしたり、やんちゃな子でしたなあ」。当時を知る女性(79)は言う。
父親は一九六〇年代前半まで吉永駅前で医院を開業していた。「貧乏人にも温かい人だった。盲腸の手術で『治療費は米でもかまわんぞ』と言ってくれたり、奥さんもお金を援助してあげたりしてました」
万波医師は地元高校を卒業後、山口大医学部に進学した。岡山大に進んだ弟の廉介医師(61)=岡山市=は父親のこんな言葉を覚えているという。
「医療はすべて患者のためにあるんだ」
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泌尿器科医の道を選んだ万波医師は、市立宇和島病院に就職。腎不全患者への透析治療を行う日々の中で、腎移植に強い関心を持つようになる。
広島大の医師に技術を学び、一九七七年、同病院で初めての生体腎移植を行った。七九年ごろには岡山大に見学に出かけている。全国でも、実施例は大学病院を中心に年間二百例程度の時代だった。
勤務先に突然、米国への留学を申し出たのは四、五例の移植を手掛けた後だった。移植の先進国で、もっと技術を学びたかった。あこがれの移植医がいたのだ。
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摘出した臓器を保存する「UW液」の開発者として知られる米国・ウィスコンシン大のベルツァー医師(三〇~九五年)は当時、移植医療の権威の一人とされていた。
「先生の手術を見せてください」
「費用は出せないが、宿舎は用意する。いつでも来なさい」
手紙で、そんなやりとりがあったという。快諾をもらうと、病院の許しを得て一年間留学した。ベルツァー医師の手術に何十回と立ち合った。
「今まで見たこともない、鮮やかなメスさばきじゃった。出血も少ない。最後は永住したい気持ちもあったけどな」
滞在中、死体の腎臓からがんを切除し、移植したケースを何度か見た。
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「昔は移植の成績が悪かった。薬の副作用に悩まされたり、また透析に戻る人がおったんですわ。今は、移植すると透析生活の患者さんが本当に普通の生活ができるようになる。移植技術の向上も大きいですわなあ」
八〇年代には、画期的な免疫抑制剤・サイクロスポリンが登場する。移植腎の生着率(一年)は、生体腎が70%から90%、死体腎が50%から80%へと、以前より飛躍的に高まった。
だが、国内で死体腎が少ない状況は変わらない。生体移植はドナー(臓器提供者)が親族に限られる。運良く移植できても、数年後に腎臓が機能しなくなり、再び透析に戻る患者の落胆ぶりを数多く見てきた。
腎がんの患者から取り出した腎臓を初めて患者に移植したのは、九〇年ごろのことだ。
「透析の苦しさは患者にしか分からん。病気腎はどうせ捨てる臓器。移植に使ってみたらという考えが、自然発生的に出たわけです」
万波医師を中心に、協力関係を築いた弟の廉介医師ら瀬戸内グループの医師にとっては、やがてそれが「必然の道」となっていく。 |